、手には白刃を提《ひっさ》げて立っています。
無事で帰ったというよりは、殺された魂魄《たましい》が煙の如く立ち迷うて、ここへ流れついたと見るのが至当かも知れない。
十五
一方いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原を再び後へ戻ったところ、峠の上の立場《たてば》、五条源治の茶屋は、この時、上を下への大騒ぎであります。
それはほかでもない、ここへ、さいぜん[#「さいぜん」に傍点]出立した四人が舞戻って来たからです。しかもそのうちの二人の者が、血に染みた二人の者をかつぎ込んで来たからであります。
丸山勇仙は高部弥三次を肩にかけ、仏頂寺弥助は三谷一馬を引背負《ひきせお》って、この茶屋へかけ込みました。
それによって見ると、負傷したのは二人で、負傷しないのが二人。負傷の程度はドノ位か知らないが、二人とも、身動きもできないのを、ともかく、応急の血どめをして、ここへ担ぎ込み、仏頂寺弥助は、はげしく店の者を追いまわして、蒲団《ふとん》の上にゴザを敷いて、ともかくも、その上へ二人の負傷者を横たえる。丸山勇仙は刀の提げ緒を取って襷《たすき》にかけ、
「亭主、大急ぎ、焼酎《しょうちゅう》と畳針を心配してくれ、それに麻糸と晒《さらし》」
といいつけるのを仏頂寺弥助がおっかぶせて、
「なければどこぞ近いところへ人を走らせて、焼酎と畳針と、それから麻糸に晒……この傷を縫い合わせるのだ」
とわめきました。
そこで、顛倒《てんとう》して店のものが、また大騒ぎで、家中を探しにかかると、いいあんばいに、焼酎はかなり豊富に蓄えられてあるし、麻糸も人間を縫う程度には蔵《しま》われてあったし、少々、錆《さ》びてはいたけれども、相応の畳針まであったのを取揃えて差出すと、
「有難い、誂向《あつらえむ》きの品が全部そろっていた」
丸山勇仙は、焼酎の壺を取り上げました。この男は医術の心がけがある。そこで、負傷者のために、救急療治として、その傷口をまず焼酎で洗い、次にこの畳針で縫い合せの手術にとりかかるのは心得たものです。仏頂寺弥助は、それに介添《かいぞえ》として働き、かなりの時間を費して、ともかくも、二人の傷を縫い了《おわ》って、体中を、晒ですっかり巻いてしまってから、
「仏頂寺、いったいこれはどうしたというものだ」
と丸山勇仙が、仏頂寺弥助にたずねると、
「おれにもわからない」
仏頂寺弥助は、投げ出したような返事。
「あれは、いったい、ほんとうに盲目《めくら》なのか」
丸山が重ねてなじると、仏頂寺は、
「本物らしい」
「してみれば、君たち三人が、まとまって、ついに一人の盲人のために不覚を取ったという理窟になる――いや、理窟ならまだいいが、現実この通りの始末。剣術というものは、本来、それほど段のあるものか」
「ううん、それをいわれると面目《めんぼく》ないが……」
と仏頂寺弥助はうなり出して、じっと考え込んでいたが、
「術には、さほどの相違もあるまいが、出ようが悪かったのだ」
「出ようが悪い――それは向うのいうことだろう、向うは眼が見えないのだぜ」
「眼は見えないけれども、あれは心得たものじゃ、真剣の立合では神《しん》に入《い》っている、まさに驚くべきものじゃ」
「盲目で……」
「眼のあいた奴の仕事はたいてい見当がつくが、眼の見えない奴の構えは測ることができない。一時《いっとき》、おれは、あいつの構えを見て、ズウッと骨まで寒くなったよ。その瞬間だ、出てくれなければいいがと思っている三谷が出てしまった。出たのじゃない、引寄せられたのだ。そこで案の如く斬られてしまった。あれは眼のあいた奴にはできない芸当だ、あの引寄せる力がめあきにはない。おれも今までずいぶん、命知らずと戦った、また千葉の小天狗栄次郎殿や、練兵館の歓之助殿(斎藤弥九郎の次男歓之助、弱年にして鬼歓《おにかん》の名を得たり)は怖ろしい相手だと思うが、それは怖ろしくとも眼があいている」
「めあきは不自由なものだと、塙検校《はなわけんぎょう》が言った」
丸山はカラカラと笑ったが、仏頂寺は浮かない。
また一方、この日の朝まだき、下諏訪の秋宮《あきのみや》の社前は、まがい[#「まがい」に傍点]ものの鹿島の事触《ことぶれ》が、殊勝らしく、
「さて弘《ひろ》めまするところは神慮《しんりょ》神事《かみごと》なり、国は坂東《ばんどう》の総社|常陸《ひたち》の国、鹿島大神宮の事触れでござる。さて鹿島大神宮の一年の御神事《ごしんじ》は、七十二度の御神事、七度の御祭礼とござって、いきがい[#「いきがい」に傍点]、おきどり[#「おきどり」に傍点]、湯様《ゆためし》の御神事と申して、一天地のようだいを申してまかり通る。当年はすなわち天に陽明とござって、日照《ひでり》が六分……」
七ツさがりに、その日の先触れ
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