がない。今は白昼――よし灰色の空であっても、その裏には白日のかがやくところにおいて、おなじことをくりかえして、おなじように引上げるだけのものです。
 ただ今日のは、白日荒原の上、十方碧落なきのところで、前後左右に敵を引受けた無謀と、それに相手が相当の代物《しろもの》だけに、その勝負の程度が問題になるので、現在こうして、歩いている以上は、とにかく、生命に異状はないらしい。だが、或いはまた、勝負は多勢に無勢の当然の結果を踏んで、その魂だけが、こうして浮びきれない荒野を、さまようて歩くのかも知れない。
 それにしても仏頂寺弥助はいずれにある。三谷一馬はどうした。高部弥三次はいかに。また丸山勇仙はどこへ行った。
 それらの者の影は、一つもこの荒原の上に見えないではないか。
 まさか、四人が四人、枕を並べて、屍《しかばね》を草深いところに横たえてもいまい。
 では、逃げたか――或いはまた勝って再び立場《たてば》の五条源治へ引上げ、そこで祝杯を挙げてでもいるのか。
 ともかくも、荒野にただ一人、机竜之助の姿は、蹌々踉々《そうそうろうろう》として歩み且つ止まり、この世の人が、この世の道をたどるとは思えない足どりで、それでも迷わんとして迷わず、さして行くところは、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家。
 そこへたどりついて、戸をホトホトと叩きました。
 荒原にざわざわと風が吹き、草も、木の葉も、一様に裏を返したのはその時。
 締めきった戸を、外からホトホトと叩かれた時、まず鉄砲を持った主《あるじ》が、ワナワナと慄《ふる》え出してしまいました。
 この鉄砲というのが、慶長以後、島原の遠征に一度参加して帰ったという履歴附きの代物《しろもの》で、最近においては、塩尻附近の猪追《ししお》いに持ち出して成功した記録があるので、主も自信のある品にはなっていましたが、この時は、どうしても目当《めあて》がつかないのみならず、五体が上下に動き出して、その鉄砲を支えられないという有様です。
 得物《えもの》得物《えもの》を持った駕籠屋《かごや》と馬方は、土のようになって、ヘタヘタと土下座をきってしまいました。
「久助どの、久助どの」
 外では、続いてホトホトと戸を叩き、低い声で人の名まで呼んだのですが、こちらの守備兵の耳ががんがん[#「がんがん」に傍点]と鳴り出して、それを聞き取れなかったと見えます。
「テ、テ、テッ砲だぞ!」
と主《あるじ》が叫び出したが、自分で何をいい出したかわかってはいますまい。鉄砲の銃口《つつぐち》が無暗に上り下りして躍っています。
 すると、外では、やや間《ま》を置いて、
「お雪ちゃんはいないか……ともかくもここをあけて下さい」
「ナニ!」
 まだがんがん[#「がんがん」に傍点]として、何が何だかわからないで、居たり、立ったりしていると、程遠からぬ裏の物置にいたお雪と久助との地獄の耳にそれが届きました。
「おや?」
 久助の胸に固くなっていたお雪が、まず聞き耳を立てると、久助も、
「あの声は?」
といいました。その時、表で第三度目の戸をたたく音――
「誰もいないか、久助どの、お雪ちゃん」
 それでまさしく合点がゆくと共に、二人は重し[#「重し」に傍点]にかけられた千貫の石が、急にハネのけられた気持がしました。
「先生が戻って来ましたよ」
「たしかに、そうでしたよ」
 二人が、はじめて立ち上ると、その時、またも表でホトホト叩き、
「ともかくも、ここをあけて下さい」
 久助とお雪とは表口へ走り出しました。島原遠征の鉄砲が、漸く手の上に納まったのもこの時であります。土下座をきった駕籠屋、馬方が、生気《いき》を吹き返したのもこの時で、
「誰だい」
「そこへ来たのは誰だい」
 お雪が早くも戸の傍へ立って、
「先生ですか!」
「ああ、いま戻りました」
 戻ったというのは、地獄から戻ったのか。その声は、たしかに地獄から響いて来たもののような声です。そうでなければ、自分たちが地獄から解放されたような心持で、従って、外なる人の言葉が、まだ地獄の底に救われない人の声のように聞きなされるのでしょう。それでもお雪は、ふるえつくように戸へ手をかけて、
「先生、ほんとに御無事でしたか、お怪我はなさいませんでしたか」
 いきなり戸をあけようとするから、久助が心配して、
「まあ、お待ちなさい」
 主《あるじ》と、駕籠屋、馬方は、油断なく万一に備える心持で、まだ得物《えもの》を手放さないでいると、
「大丈夫ですよ、それほど用心しなくとも。たしかに先生の声ですもの」
といって、お雪が戸をガラリとあけましたが、あけて後、失神したもののように驚いて、後ろへさがりました。
「まあ……あなたは」
 そこに、たしかに竜之助が立っているには立っていましたけれど、その人は血をあびて
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