ずの敵が容易に来ない。一陣を斬りくずして、余れる勢いでこの孤城に殺到して来るべきはずの敵が、なかなかに来ないのであります。
「久助さん……来ませんね」
「ここに隠れたことを知らずに、通り越したのかも知れねえぜ」
「そうだとすれはまたひきかえして来るかも知れません」
「ナアニ、そのうちには、お大名のお通りがありますよ。お通りがあれば、あんな悪い奴は、蜘蛛《くも》の子を散らすように逃げてしまいますからね」
 ここで、万々一のお大名行列の威力まで引合いに出して、お雪に力をつけてみたのですが、お雪の耳へは入らないで、
「先生がかわいそうだわ」
「どうも仕方がございません、助ける手段がねえのだから」
「先生も悪いわ、早く馬で逃げてしまえばよかったのに。ですけれども、そうすれば、わたしたちが直ぐにつかまってしまいます……でも、同じことなら、眼の見えない人より、眼の見える人が先に殺された方がよかったかも知れない」
「あ、人の足音がするようです、静かに――」
 久助はお雪をかかえて、身体《からだ》を固くする。
 しかし、人の足音と思ったのは僻耳《ひがみみ》でしょう。そうでなければ表の戸を守っている主《あるじ》と、駕籠屋と、馬方とが身動きをしたのか、またそうでなければ、桔梗《ききょう》ヶ原《はら》から塚魔野《つかまの》へ、意地の悪い鴉《からす》が飛んで行く羽風であったかも知れない。
 諏訪からのぼって来た人は、峠の上のこの騒ぎで、五条源治の立場《たてば》あたりに食い止められているんだろう。塩尻からは、まだここへ通りかかるほどの早立ちの客がなかったものと見てよろしい。
 それですから、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原は空々寂々として、原林のような静けさ。まして雪もよいの陰鬱な天気。
 ところで……高原の空気に冴《さ》ゆる剣の音も聞えない。吹き来《きた》るべき暴風が途中で沈没してしまったものか、或いは人の恐怖を出し抜いて、その頭上を通り越してしまったものか、いつまで経っても、一軒屋の表戸をおどろかすものがありません。いったいどうしたのだ。あまりのことに、こっそり戸をあけて、もう一度様子を見ようとまで気がゆるんだ時に、ようやく野風のさわぐ音。
 この間、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原には、灰色の雲がいっぱいに立てこめて来ました。
 諏訪の盆地は隠れて見えず、鉢伏《はちぶせ》と立科《たてしな》が後ろから覗《のぞ》き、伊奈《いな》と筑摩《ちくま》の山巒《さんらん》が左右に走る。遠くは飛騨境《ひだざかい》の、槍、穂高、乗鞍等を雲際に望むところ。近くは犀川《さいがわ》と、天竜川とが、分水界をなすところ。
 すべてを灰色に塗りつぶした、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原は山路にあらずして、いとど荒原の趣を加えてきました。見渡すところ、この荒原の中、離々《りり》たる草を分けて歩み行くたった一人の人、這《は》うような遅い足どりで――
 天地が塗りつぶされた灰色の中に、その人も灰色。
 その人は、手に白刃をさげたままで、左の手で半身にあびた血汐《ちしお》を拭いながら、よろよろと荒原の中を歩いている。
 野袴の裾には、尾花すすきが枯れている。
 立科から桔梗ヶ原へ向けては、灰色の空をしきりに鳥が飛ぶのに、地上の荒野原は、この人ひとりをあるかせるための蒼涼《そうりょう》たる画面。
 しかし、どう見ても、痛々しい足どりだ。病めるにあらざれば、傷ついている。
 誰と戦って、誰のために傷つけられた。相手はどこにいる。どこにもいないではないか。連れはどこにいる。それも見えない。
 こういう場合には、傷ついたよりも、殺された方が幸いである。殺されて屍《しかばね》を荒原に横たえ、魂を無漏《むろ》の世界へ運んだ方が安楽で、傷ついて助けのない道を、のたり行く者の苦痛とは比較になるまい。
 誰か通りかかる人はないか。通りかかって、このあわれな負傷者をいたわってやるものはないか。いたわってやる余裕と勇気がなけれは、せめて遠くから、その方角を教えてやれ。この男は時々、真直ぐな道をさえ間違えて、草原に迷い入り、南北をわすれてしまうではないか――傷ついたのみならず、彼はもう、眼が見えなくなっている。
 ああ、この痛々しい足どり――だが、今となっては誰を怨《うら》もうようもあるまい。十種香の謙信でさえが、「塩尻までは陸地《くがじ》の切所《せっしょ》、油断して不覚を取るな」と戒めているではないか。
 しかしながら、世間のこと、他の羨望《せんぼう》するほど気楽でないこともあれば、他の同情するほどに苦痛を感じていないこともある。
 この男はこれが商売です――商売という語《ことば》が目ざわりならば、生存の意義とでも、遊戯とでも、なんとでもいって下さい。江戸の市中にある時は、これを夜行なったから誰も見たもの 
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