の血は忽《たちま》ち顔の全面に溢れたものですから、丸山勇仙は、高部がやられてしまったなと思いました。それと見て、先へ一足進んでいた仏頂寺弥助が、刀を抜く手も見せず竜之助に飛びかかろうとして、急に飛びのいてしまいました。
 三谷一馬もまたすかさず抜き合わせたけれども、遠く離れて、それを振りかぶったままです。腕に覚えのない丸山勇仙は、一時《いっとき》仰天してしまいましたけれど、これは抜き合わせずに、高部弥三次の介抱《かいほう》にまわって、後ろから抱きながら、いたずらにうろたえているばかりです。
 机竜之助は抜討ち横なぐりに高部を斬ると共に、当然踏み込んで行くべき二の太刀《たち》を行かずに、後ろへ退《ひ》いてその刀を青眼に構えたままです。
 多分、仏頂寺が、斬りかかろうとして飛び退いたのはそれがためでしょう。高部を追いかける途端を、小癪《こしゃく》なと、横合いから一ナグリに斬って捨てようとしたのが、案外にも、出足を進めないで、後ろへひいて構えた変化。そこを斬り込めば自分が斬られることを知っているから、退いて立て直すことにしたのでしょう。
 三谷ときては、見当がつかないから、その当座は遠く離れて振りかぶっているが無事。
 そこで、彼等の内心のおどろきは非常なものでありました。
 これは、絶体絶命の自暴《やけ》で振りまわしている刀ではない。
 盲目滅法《めくらめっぽう》の捨鉢でもない。
 盲目といったのは嘘だ。我々を油断させるための機略だ――
 と気がついて見ると、やっぱり盲目は盲目に相違ない。
 眼が開いていないから――この際に至って、なお眼をつぶって、機略を弄《ろう》する必要はないのだから――
 その蒼白《そうはく》にして沈鬱極まる面《おもて》にたたえられた白く閃《ひら》めく殺気。白日荒原の上に、地の利と人の勢いの如何《いかん》を眼中に置かず、十方|碧落《へきらく》なきのところに身を曝《さら》して立つの無謀。

 これより先、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家に送り込まれたお雪は、気が気でなく、どうしても中へ隠れてはいられないで、幾度も、幾度も、外へ出て見ましたが、竜之助と覚しいのを中に、四人で、都合五人ほどの人が極めて悠々寛々とこちらへ歩いて来るのがもどか[#「もどか」に傍点]しいことの限りです。
 久助もまた居たり立ったりして心配してみましたが、何の方便もありません。要するに、万一の場合は、一行の中でいちばん弱いお雪を保護するのが急だと、
「お雪ちゃん、裏の方へまわって休んでおいでなさい……」
 場合によっては、この家の主《あるじ》に頼んで表戸を締め切ってもらおうと思いましたが、お雪はやっぱり気が気でなく、またも敷居の外へ出て見て、今度は、急に真青《まっさお》になり、
「あれ、大変です、斬合いが始まってしまいました、どうしましょう、どうしましょう、大勢して先生一人を殺そうとしています、かわいそうだわ、目の見えないものを、あの憎らしい人たちが寄ってたかって――」
と絶叫しました。
 この叫びで、久助も色を失って駈け出して見ると、お雪は夢中になって、
「誰か、助けて上げてください、四人と一人じゃ敵《かな》いませんわ、どんな強い人だって。まして目が見えないんですもの……あ、誰か倒れた、先生が斬られてしまった、見ていられない」
 お雪は両方の眼を両手でかくして、久助へよろけかかりました。

         十四

 次の恐怖がほどなくこの一軒家へ襲うてくる。逃げられなければ隠れるほかはない。隠れおおせないまでも――
 久助は、目をふさいで凭《よ》りかかったお雪を抱き込んで、
「戸、戸、戸を締めて下さい……」
 そこで、この家の主人《あるじ》が先立ちで、駕籠屋、馬方など避難の連中が、ビシビシと戸を締めきり、内から枢《くるる》を卸した上に、心張《しんばり》をかい、なお、万一の時の用意に、慶長年代の火縄の鉄砲を主は持ち出し、駕籠屋は息杖《いきづえ》をはなさず、馬方は手頃の棒を持っていました。
 久助とお雪は、裏口へまわって物置の蔭に小さくなって、
「だから、先生を馬から下ろさなければよかったのに……」
「だって、下りてしまったんだから仕方がねえ」
「きっと、ここへやってくるわ、もし、この家をこわしてしまったら、どうしましょう、逃げ出したって一筋道だから、捉まるにきまっているわね」
「ここの主人《あるじ》が鉄砲を持っているから、安心しなさいよ」
 けれども、事実、その鉄砲がどのくらい威力あるものだか覚束《おぼつか》ない。
 今や、締めきった戸を割れるばかりにたたくもののあることを期待し、それが、いよいよ戸を押し破ったなら、その時こそ最後……と腹をきめるよりほかはない。
 お雪は、久助の懐ろに息を殺している。
 ところが、おそい来るべきは
前へ 次へ
全72ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング