婦にしては年が違う、兄妹にしては他人行儀なところがある、付人《つきびと》も仲間《ちゅうげん》小者《こもの》ではない、どこの藩中という見当も、ちょっ[#「ちょっ」に傍点]とつきかねる、そうかといって、ただの浪人にしては悠暢《ゆうちょう》な旅だ」
横目でジロリジロリと竜之助の一行を眺めましたが、竜之助の笠はかなり深いのに、垂《たれ》のない駕籠で、お雪の姿はありあり[#「ありあり」に傍点]と見えましたから、離れると、
「ちょっ[#「ちょっ」に傍点]と可愛らしい娘《こ》だ」
「人好きのする娘だ」
といってカラカラと笑い、
「昨晩はかわいそうに」
「そうそう、丸くなって逃げ出したが、あれっきり姿を見せなかった」
これは酔いつぶされて逃げ出した女のこと。
やがて、峠の上、立場《たてば》の茶屋へ来るとそこで一休み。
仏頂寺弥助は鍵屋の辻の荒木又右衛門といったような形で縁台に腰をかけ、諏訪湖の煮肴《にざかな》を前に置いて、茶の代りに一酌《いっしゃく》を試みている。
この辺の連中、腕はたしかに出来るには出来るが、ややもすれば無頼漢になってしまう。これより先、江戸三剣士(千葉、桃井、斎藤)の一人斎藤篤信斎弥九郎が、その門弟のうちから十余人の腕利《うできき》を選抜して「勇士組」と名づけ、これを長州へ送ってやったことがある。仏頂寺以下もそのうちの一人で、最初のうちはよかったが、後にたち[#「たち」に傍点]が悪くなって、京阪の間で悪事を働いたものだから、師の篤信斎の怒りを買い、実はもう、とうの昔に殺されていなければならないはずの男でありました。それがまだこの辺を宙にさまようて出没しているのは奇怪千万《きっかいせんばん》のことで、多分、再び、京阪の間《かん》へ舞いのぼり、勤王や、新撰組の中へ潜《もぐ》って何か仕事をしようとするつもりと見える。しかしながら、長州あたりでも、新撰組でも、もうこれらの連中は亡者扱いにしているから、真実に相手にする者はなかろうと思われる。といって、腕にかけては、その当時といえども、この辺の連中がそうザラにあるべきわけのものでもありません。
自然用うるところのない亡者どもは、そのあり余る手腕は悪い方へ使えばといって、善い方へ使う気づかいはない。
厄介千万なのはこの類《たぐい》の亡者。
荒木又右衛門気取りで酒を飲んでいるが、本物の荒木が来てさえも、そうは容易《たやす》く後ろを見せない者共でありながら、楯に取るのは義理名分でもなく、勇侠義烈でもなく、つまるところは酒と女。今もここに網を張って、病人と足弱の一行を待ち構えているようなものですが、相手次第で、どう変化するかわかったものではありません。
その日の天気模様は朝から曇っていたものですから、肝腎の峠の上から諏訪湖をへだてた富士の姿が見えず、あたら絶景の半ばを損じたもののようで、ことに寒気が思いのほか強く、風こそないけれども、海抜一千メートルのここは、今にも雪を催してくるかとばかりです。
そこへまもなく、峠路を上って来た竜之助の一行。道中の不文律に従って、ともかくもこの立場《たてば》へ一休みはするだろうと期待していると、案外にもそのまま挨拶もなく(挨拶すべき義務もなく)この前を素通りして先をいそがせましたから、四人のものが拍子抜けの体《てい》です。仏頂寺弥助の如きは、盃を宙にして、口をあいて、掌《て》の中の珠《たま》を取られたような形でいましたが、さりとて、上って来たその人は河合又五郎でもなければ、阿部四郎五郎でもないから、立ち塞がるわけにもゆかず、呼びとめる縁故もありません。
やむなく、相当の時間と茶代とを置いて、この立場を出立しました。四人はいい合わさねど忌々《いまいま》しい面《かお》をしている。
峠の上の立場《たてば》――五条源治を素通りした竜之助の一行は、やがて、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家へかかろうとする時分に、後ろから、
「おおい」
と呼ぶ声。
その声を聞くと駕籠《かご》の中のお雪が、まず恐怖に打たれました。
「おおい」
二度《ふたたび》呼ぶ声。久助は聞かないふり[#「ふり」に傍点]をしていると、堪りかねたお雪が、
「久助さん、おおい、おおいって、呼んでいるのは、あのさむらい[#「さむらい」に傍点]たちじゃありませんか」
「そうかも知れねえ」
「なんだか、気味の悪い人たちですね、麓《ふもと》でも、わたしの駕籠をジロリジロリと見ていました、いそぎましょう」
「急ぎましょう」
急ぐといって、ここは下りに向った塩尻峠ではあるが、見通しの利《き》く野原の一筋路。
もし隠れるとすれば、いのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の真中に、屋根に拳石《けんせき》を置いて、中で草鞋《わらじ》を売る一軒家があるばかりです。
「おおい」
と三たび呼ぶ声。こ
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