いものだから、その狼藉《ろうぜき》があたり近所の座敷まで驚かすの有様となりました。
しかし、女も、もうのがれられないと観念したか、やがておとなしくなって、そこへすわると、かれらは女に酒を飲ませました。
やむを得ず、女はその盃を受けると、つぎの一人がまたさす。からかいながら、強《し》いてその盃を乾させて興がるのです。もう遅いからぜひおかえしくださいませと、またも女がせがむ[#「せがむ」に傍点]のを、もう一つやればかえすといっては、無理に酒を飲ませる。
女は、できるだけ、それに逆らわずに、酒を酌《つ》いでもらって、早く帰してもらおうとつとめているらしい。
男共は、それと違って、この女をもりつぶして興がろうとしているらしい。
仕方がなしに重ねているうちに、強くもない酒が廻って来るのはぜひもありません。もともと水性《みずしょう》の女ですから、少しずついい気持になって、相手になっているうちに、とうとうもりつぶされてしまいました。
そこで、四人の者は凱歌《がいか》をあげて喜ぶ。
「もういただけません、どうしてもこれで御免を蒙《こうむ》ります」
いったん酔いつぶれた女が、よろよろと立ち上ったのは、それから暫くの後で、初めて気がついたように、
「ああ、もう何時《なんどき》でしょう、いけません、いけません、皆さんは、わたしをだましてしまいました、口惜《くや》しいッ」
女は何におどろかされたか、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]にこの座敷を逃げ出しました。
そのまま梯子《はしご》を駈け下りて、帳場から表入口へ飛び下りた足どり、酔がさめているのではない。
「もう時刻ですよ、泊っておいでなさい、泊っておいでなさいってば……」
帳場で支えるのを聞かず、この女は表へ飛び出してしまいました。
夜の遅いことは知っているだろうが、今が何時《なんどき》だかは忘れている。
「ああ口惜しいッ」
夢遊病にとりつかれたような女は、それでも本能的に自分の下駄だけは間違えないで穿《は》き、盲目的に外へ飛び出してしまいました。
「ああ、こんなに酔っぱらっちまった、頭がガンガンして、からだ[#「からだ」に傍点]が火のように熱い、ああ、わたしはうっかりして、欺《だま》されてしまった、口惜《くや》しいッ」
女はこういって、まっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に外の街道を駈け出します。
この女の家は町はずれにあるはず。そこへ帰るつもりで、まるっきりちがった方角へ走っているらしい。そのくらいだから髪のくずれていることも知らない。着物のみだれていることも気がつかない。
「口惜しいッ」
と何かわからずに口惜しがって、街道を駈け出したが、やがてぱったりと物に突き当って打倒れ、その時、起き上るほどの気力がなかったと見えて、そこへころがったままでいる。
けれども気絶したわけでもなければ、怪我をしたのでもない。まだ、充分に酔いがまわっているのに、走り出して疲れたものですから、泥のようになって、そこにかすかないびき[#「いびき」に傍点]をさえ立ててねむってしまったのです。
女が倒れているのは――静かな神社の境内《けいだい》。突き当ったのは、注連《しめ》の張った杉の大木にめぐらした木柵。ここは諏訪の秋宮《あきのみや》、この杉こそは名木|根入杉《ねいりすぎ》。
この時が、ちょうど、例のお万殿の出遊《しゅつゆう》、呪《のろ》いを怖れる者の出てあるいてはならないという九ツ半でありました。
十三
しかし、その晩は、宿の方ではそれよりほかに変ったことはなく、お雪ちゃんも夜中に目がさめて、竜之助の刀を覘《ねら》うような物騒なことをしないでも済み、竜之助も血に渇《かわ》いて、夜中に忍び出でた形跡もなく、久助は無論前後も知らず、隣室の、かのおだやかならぬ四人連れのものどもも、無事に眠りについて夜を明かし、まだ暗いうちに、竜之助は昨晩頼んでおいた馬で、お雪は駕籠《かご》で、久助は好んで徒歩《かちある》きでこの宿を立つと、それと前後して、やはり隣室の四人連れ、丸山勇仙と、仏頂寺弥助と中ごろから加わった二人、その名をいえば、高部弥三次、三谷一馬の都合四人も、この宿を出かけました。
下諏訪を立つとまもなく塩尻峠。一足先に出た竜之助の一行と、やや後《おく》れて仏頂寺ら四人のものとは、この道中において、やはり後になり先になりましたが、徒立《かちだ》ちとはいえ一方は屈強のつわもの[#「つわもの」に傍点]、一方は病人と女づれのことですから、徒《かち》の四人が先になるのはぜひもないことです。
これより先、彼等四人のものには、竜之助の一行が問題となって、
「あれは昨晩、われわれとおなじ旅籠《はたご》を取ったものだが、なにものだろう、夫婦でなし、兄妹でもなし……」
「左様、夫
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