へ置いて、机竜之助は枕につきました。
「ここから風が入るといけません」
 お雪は竜之助のために、枕の間の夜風を、夜具の襟で埋めてしまおうとした途端、ゾッとして唇の色まで変りました。
 しかし、べつに夜具の中に鬼も蛇《じゃ》も棲《す》んでいるわけではない。蝋《ろう》のように白い竜之助の寝顔を見た時、はじめて、「姉を殺したのはこの人だ」と言った弁信法師の言葉が、ハッと思い当ったからでしょう。
 弁信法師のいうことは、上《かみ》は碧落《へきらく》をきわめ、下《しも》は黄泉《こうせん》に至るとも、あなたの姉を殺したものがこの人のほかにあるならばお目にかかる――それは途方もない出放題《でほうだい》。
 弁信さんは、時々ああいうことをいい出すからいけないのだ。
 もし、あの弁信さんが今晩ここにいたら、あの人だから、何をいい出すまいものでもない。「今晩、九つ半過から、この道を通って諏訪の明神へおまいりをなさるのは、いにしえ[#「いにしえ」に傍点]のお万殿ではありません、それは殺されたあなたの姉さんです」――こんなことをいい出すかも知れない。どうも、そういう気がしてならない。なお念を押して、「私は血まよってはおりません、私のいうことが本当でございます」と付け加えるかも知れない。
 いい時はいいが、悪い時は、弁信さんのいうことは一から十まで気になる。ああ、悪いことを思い出した。
 そう思うと、しんしん[#「しんしん」に傍点]と淋しくなって、ほんとうに殺された姉さんが、ほどなくこの街道を通るように思われてならない。見ていればいるほどこの人が、ほんとうにわたしの姉に手を下したもののように疑われてならぬ。
 罪という罪は多いのに、夫にそむいて他の男に許した女の運命のみが、なぜそのように酷《むご》いのだろう。わたしには、どうしてもお万殿がそれほどの悪人とは思えない。信長という人の方が、どのくらい無慈悲な、極悪《ごくあく》な男だか知れない――わたしの姉さんだってその通り、優しくって、如才《じょさい》がなくって、うわべだけでない親切気のあった人――ついした間違いが、死を以てするよりほかに償《つぐな》いがないとは、なんという情けない女の運命。
 そんなことを考えれば考えるほど、気が滅入《めい》って、あらぬ人に疑いをかけてみたがったり、世間を呪《のろ》いたがってくる。全くこんな晩には早寝をするにかぎると思い直して、お雪は次へ行って帯を解こうとすると、廊下にバタバタと人の足音があって、
「さきほどはどうも、失礼を致しました」
と障子をそっとあけたのは、以前、お雪のいない時に物売りに来たなまめいた女です。
「何か御用?」
 帯を解きかけたお雪がこちらを見て返事をすると、女もお雪を見て、ちょっとはにかんで、
「あの――さきほど、そこいらに櫛《くし》が落ちてはおりませんでしたろうか。いいえ、つまらない櫛ですから、どうでもいいのですけれど……」
「あ、櫛ですか、落ちていました」
 お雪はほどきかけた帯をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と締め直して、
「落ちてはいましたけれど、お気の毒さま、こんなに割れていましたよ」
「まあ」
 お雪が行燈《あんどん》の上にさしおいたお六櫛の二つに割れたのを取って見せると、
「おやおや……わたくしのそそうですから仕方がございません」
 女はしょげて、二つに割れた櫛を受取り、
「どうもお邪魔を致しました、お休みなさいませ、よろしく」
といって竜之助の寝ている方を横目でチラリと見て、障子を立てきって出て行きました。
 ちょっといき[#「いき」に傍点]がった髪の結いよう、お化粧、着こなし、緋縮緬《ひぢりめん》の前掛、どう見ても湯女《ゆな》気分の色っぽい女。お雪はちょっと眩惑されて憎らしい気分がしましたけれど、そこになんとなく人なつこいものの残るのを、さぐってみると、どうも殺された姉に似たところがある。気のせいか知らないが、姉の持っていた、人ずきのする懐かしみをかなり多量に持っている。
 今の女が、わたしのいない時にこの座敷へ物売りに来て、そうして櫛を落していった。その櫛が二つに割れている。
「ああ、この女もまた姉のように殺されるのではないか」
 忽然《こつねん》として起った何の拠《よ》りどころもない暗示。こんな暗示に襲われた自分を、お雪は戦慄《せんりつ》しました。
 この女が廊下でバッタリ、仏頂寺弥助に出逢ったのが運の尽きであります。
 弥助は、いや[#「いや」に傍点]がる女を無理に自分の座敷へ連れ込んでしまいました。しかもその座敷には新たに二人の客があって都合四人、酒興ようやく酣《たけな》わなるの時でありました。
 女がしきりに、あや[#「あや」に傍点]まるのを、かれはどうしても聞き入れない。女はついに泣き声になっても、どうしても、許すことをしな
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