の声に竜之助が聞き耳を立てました。
「うるさい奴等だ」
「何でしょう、あのおさむらい[#「さむらい」に傍点]たちは?」
 久助が心配する。そこで期せずして三人がひっかかりました。
「先生、かまわないで行きましょう、そうでなければ、あの一軒家へ隠れて、先へやってしまいましょう」
 最も多く心配するのはお雪です。
「おおい、お待ちなさい」
 ようやく近寄って来た四人の者。
「ちぇッ」
 竜之助は小癪《こしゃく》にさわる心持で、馬から下りてしまいました。
「先生、芸もないから相手になるのはおよしなさいまし、なんだか、たいそう気味の悪いさむらい[#「さむらい」に傍点]たちですから」
 久助も、お雪も、馬から下りた竜之助を見て、かえってそれに驚かされました。
「小うるさい奴等だ……久助どの、お前はお雪ちゃんを連れて、その一軒家とやらへ隠れておいで……馬も、駕籠も、近くへは寄らぬこと」
 馬から飛び下りて、右の手で野袴の裾をハタいて、それから笠の紐を取った竜之助の面《おもて》は例によって蒼白《あおじろ》い。いつも沈みきっている人も、時あっては小癪にさわる憤りを漂わせることがある。
「え、滅相《めっそう》な」
 老巧の久助も面《かお》の色を変えました。この人は事をわけて相手をなだめるために下り立ったのではない、まさしく怒気をふくんで待ち受けているのです。病人であり、盲者《めくら》であるこの人が……。油を以て火を迎えるようなもの。
 物騒な相手よりも、相手を知らぬものが怖い。久助は何かいおうとして、慄《ふる》え上ってしまいました。
 しかし、心得たのは、お雪を乗せた駕籠屋で、客の安全よりは自分たちの安全を頭に置いて、竜之助にいわれた通り、お雪を乗せたままの駕籠を中に、程遠からぬいのじ[#「いのじ」に傍点]ヶ原の一軒家めがけて飛ばせてしまいました。馬も、馬方もそれについで――
 久助は、無謀千万な同行者の態度に、いうべき言葉を失って慄え上っている間に、
「お呼び留め申して失礼」
 おだやかならぬ四人のものは、早くもそこへ追いついたから、久助は、本能的にお雪の駕籠を追いかけて走りました。
 あとにひとり残った竜之助は、うしろを顧みずしてあるきながら、
「おのおの方は、さいぜんからわれわれをお呼び留めなさるようだが、何の御用でござる」
「ちと、承りたい筋があって」
 竜之助と押並ぶようにして、まずしゃしゃ[#「しゃしゃ」に傍点]り出たのが高部弥三次。
「それはまた何事」
 竜之助が答えると、弥三次はせき[#「せき」に傍点]込んで、
「貴殿は昨夜、下諏訪の孫次郎へ一泊致したでござろうな」
「仰せの通り」
「そうして、貴殿は、あの宿で女をかどわかして[#「かどわかして」に傍点]これへ伴い参ったはず」
「何をおっしゃる」
「我々に向って尋常にその女をお渡しなさい」
 弥三次が詰め寄ると、後ろで仏頂寺をはじめ他の三人がニタリと笑っている。
 そこで、竜之助は黙っていました。このやつらは、いいがかりを考えて来たな、自分たちで企《たくら》んだことを、こちらへ向けて先手にやって来たな。よしその分ならばと思ったのでしょう。
「いかにも女を一人つれて参ったに違いないが――」
「穏かにその女をお渡しなさい」
「渡すべきいわれのない者には渡せない、貴殿らにその女を受取るべき縁故があるなら聞きたい」
「我々はその――女にとっては親戚のものでござる、つまり、親戚のものから頼まれて、あとを追いかけまいったものでござる」
「しからば、その受取りたいという女の身元は?」
「宿の女じゃ、貴殿がかどわか[#「かどわか」に傍点]して、駕籠《かご》に乗せてまいったあの女」
「して、その女の名は何といって、年は幾つぐらい」
「くどい――」
 高部弥三次が一喝《いっかつ》しました。少々離れてあとからついて来た仏頂寺はじめ三人のものは、高部の一喝をおかしいものとして、あぶなく吹き出すところでしたが、やっと我慢していると、大まじめな高部は、
「盗人《ぬすっと》猛々《たけだけ》しいとは貴殿のことだ、人の大事の娘をかどわか[#「かどわか」に傍点]しておきながら、年はどうの、名は何のと……人を食った挨拶」
と言って竜之助の肩へ手をかけてゆすぶると、竜之助は横の方を向いて、
「紙入を一つ拾うたからとて、手渡しするまでには相当に念を押さにゃならぬ、まして人間一人……」
 そのまま歩いて行くと、高部も肩を捕《つか》まえながら邪慳《じゃけん》に歩いて、
「やい、この刀が目に入らぬか、我々のかけ合いは、ちと骨っぽいことを御存じないか。お手前はそのかどわか[#「かどわか」に傍点]して来た女を、あれなる一軒家へ隠して置いて、踏みとどまって我々に応対を致そうとするからには、相当に覚えがあるに相違ない。刀にかけて返答を
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