って来て、自分の草鞋を脱ぎ捨て、奉納の草鞋を抜き取り、それに紐を通して、例の片手で器用に穿《は》いてしまうと、何と思ったか、そのまま立たないで、堂の戸前へ腰を卸し、
「いつ見ても、この欅並木はたいしたものだ、八幡太郎が奥州征伐の時に植えたということだが、八幡太郎は今から何年ぐらい前の人だか知らねえが、まあ、ざっと千年も経つかな、見たところ、千年は経つまいがな、何しろ、欅としては珍しい方だ。雑司《ぞうし》ヶ谷《や》の鬼子母神の欅が、またかなりの大木だ。そのほか一本立ちならば随分あっちこっちに大木はあるにはある。いったい、関東でも、この辺の地味は欅《けやき》にいいんだろう。そういえば上方《かみがた》へ行っちゃ、あんまり欅の大木というのを見たことがねえ……そりゃそうと、これからこの欅並木を通って府中の宿《しゅく》へ入り込むと、さて、どういうふうに当りをつけてみたものかな。いったい、おれがいろいろ考えてみると、お役人の力で軒別に家さがしをして、それでわからねえものが、おれがこうして、ぶらりと飛び込んでみて当りのつくはずもねえのだが、さて、いったん府中の町へ入り込んで逃げたとすればどこだ、どこをどっちへ行けばうまく逃げ果せるか。ここをこっちへ行けば逃げ損うということは、ちゃんとおれが心得ている、その心得で考えてみても、どうもこの悪者はまだ府中の宿を離れてはいねえと、こう睨《にら》んだのだ、つまり酒井様のお手のついた別嬪《べっぴん》をつれ出した奴が、ほんとうにこの府中の町へ逃げ込んだものとすれば、そうして昨晩《ゆうべ》つかまらなかったのが本当だとすれば、これはまだてっきり[#「てっきり」に傍点]この府中の町のどこかに隠れている。隠れていて、ほとぼり[#「ほとぼり」に傍点]の冷めた時分に、連れ出そうという寸法にきまっている。そんならば、広くもねえこの府中の町の中のどこに、そのだいそれたいたずら[#「いたずら」に傍点]者が隠れているのか、そこが問題だテ。そこの見当が、玄人《くろうと》でなくっちゃあちょっと附きにくかろう。ところでがんりき[#「がんりき」に傍点]の鑑定をいってみるとこうだ……これはつまり、あの六所明神の社の中に何か仕掛があって、神主のなかにグルな奴があるんじゃねえかな、六所明神は武蔵の国の総社で、なかなかけんしきがある、守護不入てえことになっていると聞いたが、そこだ!」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、この時したり面《がお》に、ポンと自分の膝を打って、欅並木から六所明神の森をながめたものです。果してこのロクでなし[#「ロクでなし」に傍点]の鑑定が当っているかどうかは知らず、当人は、いっぱし睨みの利《き》いたつもりで、武蔵の国の総社六所明神を向うに廻し、一合戦をする覚悟の色を現わして、小鼻をうごめかしながら立ち上る拍子に、どうしたものかよろよろとよろけて、あぶない足を踏み締めると、これはしたり、自分の風合羽《かざがっぱ》の裾がお堂の根太《ねだ》にひっかかっている。
「ちぇっ」
 苦《にが》い面《かお》をして、それをはずしにかかって、思わず面の色を変えました。
 合羽の裾が何かにひっかかって、それで足をすくわれたものと、いまいましがって外しにかかると、
「おや?」
といって百の面の色が変ったのは、単に出そこなった釘の頭や、材木のそそくれ[#「そそくれ」に傍点]にひっかかったのではない、刀の小柄《こづか》で念入りにピンと、その合羽の裾が根太へ縫いつけられてあったからです。
「誰だい、こりゃあ」
 さすがのやくざ[#「やくざ」に傍点]者も、これには少しばかり度肝《どぎも》を抜かれました。自分が有頂天《うちょうてん》になって、六所明神を向うに廻しての策戦を考えているうちに、後ろにいてこういうたちの悪いいたずら[#「いたずら」に傍点]をした奴がある。それをうっかり気がつかずに引張り込まれたなぞは、返す返すもドジだ。昨夜の逃げ出し以来、どうもがんりき[#「がんりき」に傍点]の風向きが悪いと、自分ながら業《ごう》が煮えて、
「誰だい、こんな悪戯《いたずら》をしたのは」
 抜き取った小柄を手にして、堂の後ろを見込んで呼びかけてみたが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の心持では、こういう悪戯をする奴はほかにはない、七兵衛の奴が後ろに隠れていてやったのにきまっている、一杯食わされたなという心持で呼んでみたのですが、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]」
といって、物騒がずに堂の後ろから姿を現わしたのは、意外にも七兵衛ではありません。形こそ七兵衛に似たような旅人の風はしているが、第一、七兵衛よりは物々しい声であって、全く七兵衛とは別人に相違ないから、ここでもがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が見当外れで、
「え……」
「どうだ、がんりき[#「がんりき」に傍点]、おれを知ってるか」
といって、笠の紐へ手をかけて、そろそろと出て来ました。
「やあ、あなた様は……そうだ、水戸の山崎先生でございましたな」
「うむ、驚いたろう」
「全く驚きましたね、わっしはまた、てっきり[#「てっきり」に傍点]七兵衛の奴とばかり思っていたものですからな。先生、なかなかお人が悪い、時節柄ですから、ずいぶん驚いてしまいましたよ、どうかお手柔らかにお願い致したいものでございます」
「別段、貴様をおどかしてみるつもりもなかったのだが、張っておいた網に貴様の方からひっかかったようなものだから、ふしょうしろ。実は、もう少し大物を引っかけるつもりで張った網だが、いやなみそさざい[#「みそさざい」に傍点]がひっかかったので、おれも少しうんざりしているのだ」
「みそさざい[#「みそさざい」に傍点]は恐れ入りました」
「ところで、がんりき[#「がんりき」に傍点]、おれがこうして網を張っているわけも、また貴様がこうして、あぶないところへ近寄りたがるわけも、大概はわかっているはずだが、ここで計らず、二人がめぐりあったのは、六所明神のお引合わせかも知れないぞ」
「どう致しまして」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は額へ手を当てて苦笑いしました。今まで自分は南条、五十嵐の方の手先をつとめて、この山崎――この人はもと新撰組の一人で水戸の浪士、香取流の棒をよくつかう人――に楯《たて》を突いて来たので、この山崎には七兵衛が附いて、おたがいに張り合って来たのですが、ここで苦手にとっつかまっては、苦笑いがとまらない。
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、昨夜のあのいたずら[#「いたずら」に傍点]は誰の仕事だ、貴様はよく知っているだろうな、知らないとは言わせんぞ。あれは南条力と五十嵐|某《なにがし》らの浪人どもが企《たくら》んで、伊豆甚の娘を盗み出して逃げたものに相違あるまい。多分、貴様あたりがその手引をしたものと睨《にら》んでいる。どうだ、真直ぐにいってしまえ、どっちへ逃げたか、それともどこへ隠したか、てっとり早く明白《はっきり》といってしまえ」
 山崎譲はグッと近く寄って来て、小柄を持っているがんりき[#「がんりき」に傍点]の小手を、しっかりとつかまえてしまいました。
「その事、その事なんでございます、実はがんりき[#「がんりき」に傍点]もその事で、出し抜かれたんでございますからなあ」
 何をか言いわけをしようとするのを、山崎は許すまじき色で手首を持って引き寄せました。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵も、この人にとっつかまっては弱りきっているのを、山崎はグングンと引張って、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、貴様はこの間、南条なにがしの案内をして相模野街道を南へ歩いていたそうだが、あれはどこへ行ったのだ」
「白状してしまいますから、どうか、そう強く手を引張らないようにしていただきたいものです、片一方しかないがんりき[#「がんりき」に傍点]の手がもげ[#「もげ」に傍点]てしまうと、かけ[#「かけ」に傍点]がえがねえんでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の痛そうな面《かお》を見て、山崎は引張っていた手をゆるめて、
「うむ、素直《すなお》に言ってしまえよ」
「素直に申し上げるまでもございません、あれは、たあいのねえことなんです、ほんの道連れになっただけのものでございます」
「まだトボけているな」
「お待ち下さい、私の方ではたあいのないことなんですが、先方様の思惑《おもわく》のところはわかりません、ただちょっとした縁で道づれになって、その道筋の案内を少しばかりして上げたようなものでございます」
「その案内の道筋というのは、どっちの方角だった」
「それは……その、八王子から平塚街道を厚木の方へ出る道をたずねられたものですから、その案内をして上げました」
「いや、そうではあるまい、貴様は南条なにがしの手引をして、荻野山中《おぎのやまなか》の大久保長門守の城下へ入り込んだのだろう」
「ええ、それは違います」
「違うはずはない、白《しら》を切ると承知せんぞ」
「違います、あの方は果して厚木へおいでになったか、それとも荻野山中の大久保様の御城下とやらへおいでになったか、そのことは一向存じませんが、かく申すがんりき[#「がんりき」に傍点]は途中からお暇乞《いとまご》いをして、八王子へ出て参ったに相違ございません」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、貴様は、南条、五十嵐の一味が容易ならぬ陰謀を企てていることを知って彼等に加担《かたん》しているのか、知らずして働いているのか」
「どう致しまして、あの先生方が、どういう大望を企てて、どういう陰謀をめぐらしているのだか、私共にはそんなことはわかりません、出たとこ勝負で、頼まれるままにいい気になって、附いたり離れたりしているまででございます」
「そうすると貴様は、あの者共のダシ[#「ダシ」に傍点]に使われているだけだな」
「そうでございますとも、ダシ[#「ダシ」に傍点]に使われているだけの罪のねえのでございますから、どうかお手柔らかに願いたいんでございます。いや、あの南条先生ときては、あれでけっこう人が悪いんだからな。さりとて、今度のことはあんまり人をダシ[#「ダシ」に傍点]に使い過ぎらあ」
「うむ、ダシ[#「ダシ」に傍点]に使われていると知ったら、それを出し抜いて、裏を掻《か》いてやる気にはならないか」
「そういう芸当は、大好きなんですがね、何しろ、あちら[#「あちら」に傍点]とこちら[#「こちら」に傍点]とでは役者が違いますからなあ」
といって、がんりき[#「がんりき」に傍点]がポカンと口をあいて見せたのは、かなり人を食った振舞です。山崎はなんと思ったかがんりき[#「がんりき」に傍点]の手を放して、
「よし、それではがんりき[#「がんりき」に傍点]、もし貴様が南条、五十嵐の方で買収されているなら、こっちでもう一割高く買ってやろうではないか。先方の後立てはたかの知れた大名、こっちは二百五十年来、日本を治めて来た八百万石の将軍家のお味方だ。ともかくもこっちへ来い、人目のないところで、もう一応、貴様を吟味してみたり、また貴様の手を借りてみたいと思うこともあるのだ」
といって山崎譲は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の手から小柄を取り戻し、百蔵を促《うなが》して、六所明神の森の方へ歩き出すと、がんりき[#「がんりき」に傍点]もいやいやながら、それに従わないわけにはゆきません。

         十二

 吉原の万字楼の東雲《しののめ》の部屋に、夜明け方、宇津木兵馬はひとり起き直って、蘭燈《らんとう》の下《もと》に、その小指の傷を巻き直しています。
 この傷が、妙にピリピリと痛んで眠られないのです。傷が痛むだけではない、良心が痛むのでしょう。
「起きていらっしゃるの」
 障子を半ば開いて笑顔を見せた女。
「ああ、眠れないから」
 兵馬は正直に答えました。そうすると女は、うちかけ[#「うちかけ」に傍点]を引いて中へ入って来て、
「お怪我をなさったの」
「少しばかり」
「どこですか」
「この小指」
 兵馬は巻きかけた右の手の小指を、女の眼の前
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