霽《は》れていた空が、すっかり薄曇りに曇ってしまったよ、弁信さん、雨が降りそうになってしまったよ」
「琵琶は止めにしよう、ね、茂ちゃん、こんな日に無理をすると悪いから」
さすがの弁信法師も、再三の故障に気を腐らして、琵琶を弾くのを断念したようです。茂太郎もまたそれが穏かだと思いました。弁信はせっかく琵琶を弾くことを断念して、静かにそれを袋に納めました。
十
府中の宿のこの大騒ぎの避難者の一人に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵があります。こういう場合において、この男は避難ぶりにおいても、抜け駆けにおいても、決して人後に落つるものではない。手が入ったと聞いて、自分が泊っていた中屋の二階から、屋根づたいに姿をくらましたのは、例によって素迅《すばや》いもので、もちろん、あとに煙管《きせる》一本でも、足のつくようなものを残して置くブマな真似はしないで、スワと立って、スワと消えてしまった鮮かな脱出ぶりは、手に入《い》ったものです。
そうして、まもなくすました面《かお》を、日野の渡し守の小屋の中へ突き出して、
「お爺《とっ》さん」
「はい、はい」
道中師で通っているがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、ここの渡し守のおやじとも疾《と》うからなじみ[#「なじみ」に傍点]で、言葉をかければ、響くほどの仲になっているのです。
渡し守の小屋の中へ身を納めて、土間に燃えた焚火の前へ腰をかけ、おもむろに腰の煙草入を抜き取った時分に、程遠からぬ街道の騒動が、渡し守のおやじ[#「おやじ」に傍点]の耳に入って来たものです。
「何だい、ありゃ、えらく騒がしいじゃねえかな」
寝ていたおやじが起き直ると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、さあらぬ面《かお》をして、
「お爺《とっ》さん、気をつけな、府中の宿は今、上を下への大騒ぎだぜ」
「え、府中の宿が上を下への大騒ぎだってな? なるほど、馬で人が駆けるわな、夜中に馬で飛ばす騒ぎは只事ではござるめえ」
おやじは、むっくりと起きて心配そうです。倅《せがれ》の家は府中の町はずれにあって、幾人《いくたり》かの孫もあるはず。
「只事じゃねえ、府中の町をひっくるめて、一軒別に家さがしが始まってるんだぜ」
「へえ、一軒別に家さがし……なんです、泥棒ですか、駆落《かけおち》ですか」
「さあ……」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は尋ねられて、はじめて当惑しました。実は、脱出ぶりの迅《はや》いのを鼻にかけて、ここへ避難して来てはみたものの、何者に追われて来たかと聞かれると手持無沙汰です。家探しの声は聞いたが、何の理由で、何者の手で家探しが行われるのだか、それを聞き洩らしたのは重大な手落ちだ。我ながら気が利いて間が抜けていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はいささか悄気《しょげ》ていると親爺は、もう提灯をさげて、
「それじゃ親分済みませんが、今夜はひとつここに泊っていておくんなさいまし、わしはこれから宿《しゅく》まで様子を見に行って来ますから」
おやじはがんりき[#「がんりき」に傍点]に留守の小屋を託して、渡し守の小屋を出て行ってしまいました。
日野の渡しの渡し守の小屋は、江戸名所|図会《ずえ》にある通りの天地根元造りです。この天地根元造りへひとり納まったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、結句これをいい都合に心得て、焚火の前にはだかり[#「はだかり」に傍点]ながら思わず見上げると、鼻のさきに弁慶が吊り下げてあります。
その弁慶には焼いて串にさした鮎《あゆ》、鮠《はや》、鰻《うなぎ》の類が累々とさしこんである。がんりき[#「がんりき」に傍点]は手を伸ばして鮎を一串抜き取って、少しばかり火にかざして炙《あぶ》ってみると、濁りでもいいから一杯飲みたくなりました。
酒はおやじの蓄えを知っている。自在につるした鉄瓶も燗《かん》のしごろに沸いている。左の手を上手にあしらって少しばかり働いて、それから、さいぜん親爺が寝ていた空俵の畳へみこしを据《す》えてしまって、燗の出来るのを待っているうちに、何か思い出して、
「南条先生も、ずいぶん人が悪いや」
とつぶやいてニヤリと笑う。
それから手酌《てじゃく》で、一ぱい二はいと重ねているうちに、いい心持になって、そのまま、うとうとといど[#「いど」に傍点]寝《ね》をはじめてしまいました。いつか知らないうちに、おやじの寝床にもぐり込んで一夜を明してしまったが、夜中におやじの帰った様子もなし、焚火にくべてあった松の切株が頻《しき》りに煙を立てて、剣菱《けんびし》の天井から白々と夜の明け初めたのがわかります。
何かしら、昨夜、この男、相当のいい夢でも見たものか、寝起きの機嫌がそれほど悪くはなく、
「南条先生も人が悪いが、がんりき[#「がんりき」に傍点]をがんりき[#「がんりき」に傍点]と見込んで、けしかけるなんぞは隅には置けねえ」
しきりに南条なにがしが口頭に上ってくるのは、その以前、相模野街道で南条なにがしから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵がこういって唆《そその》かされたことがある、「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう。ほかでもないが、相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ、今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとって、その酒井が苦手《にがて》であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を絶ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで、酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかってもらう必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛《ごちょうあい》を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ、それは佐内町の伊豆甚《いずじん》という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち、殿に思われて、お手がついて、お部屋様に出世をして、当時はある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ、その名はお柳という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」――こういって猫の前へ鰹節を出したのが、今いう、その南条先生なるものの言い草である。この南条という男、ある時は慨世の国士のように見え、ある時はてんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のようにいってのける。勧めるのに事を欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者にこんなことを勧めるのは、油紙へ火をつけるようなもので、ただでさえも、そういうことをやりたくて、やりたくて、むずむずしている男に向って、こういって筋を引いたから堪ったものではない。「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んで、そうおっしゃって下さるのは有難え」――手を額にして恐悦《きょうえつ》したのはつい先頃のことです。今や、その仕事にとりかかろうとして、しきりに思出し笑いをしているところへ、夜前の渡し守が帰って来ました。
「親方、お留守を有難うございました、いやはや、昨晩は話より大騒ぎでしたよ」
その時がんりき[#「がんりき」に傍点]は、もう起き上って火を焚きつけていました。
そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]はなにげなく、
「お爺《とっ》さん、騒ぎというのは何だったね」
「乱暴な奴もあればあるもので、あるお大名の殿様のお妾《めかけ》を盗み出して逃げた奴があるんだそうですよ」
「え……」
「お江戸から、その殿様のお妾を盗んで来て、なんでも、たしかにこの府中のうちに泊ったにちがいないと睨《にら》まれたんだそうでがす」
「ナニ、何だって」
「それをお前さん、あとから追いかけてきたもんでがす、何しろ、殿様の御威勢ですからね、二十人ばかりのお侍が馬を飛ばせて江戸から、これへ追いかけて来たんだそうで……」
「ま、待ってくれ。してみると昨晩の家《や》さがしというのは、泥棒や火つけというようなものじゃあなかったんだね」
「どういたして、殿様のお妾なんです、お大名のお部屋様を連れ出した奴があったんだそうでがすから」
「そいつはなかなか大事《おおごと》だった……」
「大事にもなんにも、浄瑠璃や祭文《さいもん》で聞くお半と長右衛門が逃げ出したのなんぞより事が大きいでがすから、町の役人たちも騒ぎました」
「やれやれ」
ここまで聞いてみると、どうやら、がんりき[#「がんりき」に傍点]の胸が穏かでなくなりました。大名のお部屋様を嗾《そその》かして来たという、だいそれた色師の腕が憎いと、そういうところに妙な反抗心を持つこの男は、その憎い仇《かたき》の面《かお》を見てやりたくなる心持で、
「そうして、お爺《とっ》さん、その色敵《いろがたき》は首尾よくつかまったのかえ」
「ところが、つかまらねえんでがす、たしかにこの府中の町へ入ったはずなのが、どこをどうして逃げたか、いっこう行方《ゆくえ》がわからなくなってしまいましたんで」
「おやおや」
がんりき[#「がんりき」に傍点]としては、首尾よく逃げ了《おお》せたその果報者をますます憎い者に思って、また一面には、さがしに来たやつらの腑甲斐《ふがい》なさを、腹のうちで嘲《あざけ》っていたが、なんだか腹の中が無性《むしょう》に穏かでない。
「それで何かえ、そのお妾を盗まれたという殿様はいったい、どこの何という殿様だか、それを聞いて来なすったか」
「それが、その酒井様の……」
「ナニ、酒井様?」
「ええ、出羽の庄内の酒井様」
「何だって」
がんりき[#「がんりき」に傍点]が飛び上ったのは、よくよく胸にこたえるものがあったと見えます。
「ええ、出羽の庄内で十四万石、酒井左衛門尉様のお手がついたお部屋様を、悪者が盗み出して、そうして、この甲州街道を逃げたということですよ」
「やい、ばかにするな、そのことならおれが知ってるんだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は眼の色を変えて飛び出そうとするから、渡し守のおやじが呆気《あっけ》にとられて、
「親方、お前さん、それを知っておいでなさる?」
「知ってるとも。知らなけりゃ、どうしてこんなことが聞いていられると思う、ばかばかしいにも程があったもんだ、昨夜《ゆうべ》もそれを考えて、ひとりで思出し笑いをしていた奴はどこにいる、先手を打たれて眼の前で騒がれながら、いい心持でどぶろく[#「どぶろく」に傍点]を飲んでいりゃあ天下は泰平だ、面《つら》を洗って出直さなけりゃあ、とても明るい日の下を歩けるわけのものじゃねえ」
こういって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は道中差をつき差すと共に、小屋の外へ飛び出して、いきなり多摩川の流れで、ゴシゴシと自分の面《かお》を洗いはじめました。
十一
やや暫くあって、村山街道の方面から、八幡太郎の欅並木《けやきなみき》を、なにくわぬ面をして、府中の町へ入り込もうとするがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を見ることができます。
多摩川べりから大廻りに廻って、宵に逃げ出したあぶないところへ、再び足を踏み入れようとするこの男の心の中は、渡し守から聞かされた昨夜の事件の内容で、自分ながら呆気に取られると共に、むらむらと例によっての功名心に油が乗り、わざわざこうして取って返したもので、取って返した以上は、必ずしるし[#「しるし」に傍点]を挙げて、我ながら気の利いて間の抜けた昨夜のしくじり[#「しくじり」に傍点]を取り返そうという自信のほどが、鼻の先にうごめいている。
「いけねえ、草鞋《わらじ》が切れちゃった、幸先《さいさき》がよくねえや、ちぇッ」
八幡太郎の欅並木のとっつきで、草鞋のち[#「ち」に傍点]の切れたのを舌打ちして忌々《いまいま》しがったが、まだ夜明け時分ではあり、近いところに店もなし、当惑して見廻すと、馬頭観音のささやかなお堂の前につるしてあるのが奉納の草鞋です。
「これ、これ、これを御無心申すことだ」
といって百蔵は、堂の前へや
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