大菩薩峠
無明の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)畢竟《ひっきょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)庭上露|茂《しげ》し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+曹」、第3水準1−15−16]
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一
温かい酒、温かい飯、温かい女の情味も畢竟《ひっきょう》、夢でありました。
その翌日の晩、蛇滝《じゃだき》の参籠堂に、再びはかない夢を結びかけていた時に、今宵は昨夜とちがってしとしとと雨です。
机竜之助は、軒をめぐる雨滴《あまだれ》の音を枕に聞いて、寂しいうちにうっとり[#「うっとり」に傍点]としていますと、頭上遥かに人のさわぐ声が起りました。
しとしとと降りしきる雨をおかして、十一丁目からいくらかの人が、この谷へ向って下りてくることが確かです。
見上げるところの九十九折《つづらおり》の山路から徐《おもむ》ろに下りて来るのは、桐油《とうゆ》を張った山駕籠《やまかご》の一挺で、前に手ぶらの提灯を提げて蛇の目をさしたのは、若い女の姿であります。
ややあって、駕籠だけは蛇滝の上に置かせて、蛇の目の女だけが提灯を持って、参籠堂の前まで下りて来ました。
わざと正面の御拝《ごはい》のある階段からは行かないで、側面の扉をほとほとと叩いて、
「御免下さいまし」
なんとなく、うるおいのある甘い声。机竜之助は枕をそばだてて、その声を聞いていると、
「あの、昨晩申し上げましたように、わたくしはこの夜明けに江戸へ参ります、それは、いつぞやも申し上げました、わたくしの子供の在所が知れました、ふとしたことから兄の家へ乳貰《ちちもら》いに来た人が、その子を連れて参りましたのを、兄が取り戻したから、そっと、わたくしに取りに来るようにと沙汰《さた》がありました、それ故、急いで行って参ります、急いで帰るつもりではございますけれど、行きがかりで日数がかかるかも知れません、どちらに致しましても、わたくしはあの子を連れてお江戸に近いところにはおられませんから、きっと戻って参ります、それまでの間、昨晩も申し上げましたように、これから上野原へお移り下さいまし、あれに月見寺《つきみでら》と申しまして、山家《やまが》にしては大きなお寺がございます、あのお寺には、わたくしの妹がおりますから、あれへおいでになって、暫く御養生をなさいませ」
扉の外に立った女は欄干につかまって、扉の中へこれだけのことを小声で申し入れました。中へは入ろうとしないで、外でこれだけの用向をいって、中なる人の返事を待っている間に、提灯《ちょうちん》の中を上からながめているその面《おもて》が、やや盛りを過ぎてはいるけれども、情味のゆたかな女で、着物もこのあたりの人とはいえないまでに、柄のうつりのよいのを着ているのが、提灯の光ですっきりと見えるのであります。これぞ、巣鴨庚申塚のほとりで、不義の制裁を受けて殺されようとした女に紛れもないのです。たしか、この女の郷里は、ここから程遠からぬ小名路《こなじ》の宿《しゅく》の、旅籠屋《はたごや》の花屋の娘分として育てられた女であります。覗《のぞ》いている提灯にも、花という字が大きく書いてあるのでわかります。
あれから後、夢のような縁に引かされて、この蛇滝に籠《こも》ることになってほぼ百箇日、その間の保護は、この女から受けていたと見るよりほかはありません。
今、この女は江戸へ行くとのことです。江戸へ行かねばならぬその理由は、よそへ預けておいた行方不明《ゆくえふめい》の子供の行方がわかったから、それを取り戻しに行くのだと言っています。あの近所へ近寄れない怖れと弱味とを持っておりながら、やはり子供の愛には引かされて行くものらしい。
「子供というのは、それほど可愛いものかなあ」
扉の中で竜之助の声。
「可愛ゆうござんすとも、子供ほど可愛ゆいものは……」
提灯の中を見入っていた女が面を上げた時に、その身体《からだ》が欄干からするすると巻き上げられて、蛇にのまれたように、扉の中へすいこまれてしまいました。
二
参籠堂の中で、焚火が明るくなった時分に、机竜之助は、いつのまにか着物をきがえて旅の装いをすまし、頭巾《ずきん》をかぶって、その火にあたっておりました。
それと向い合って、女は後《おく》れ毛《げ》をかき上げて、恥かしそうに横を向いていましたが、
「長房《ながふさ》というのへ出て小仏へかかるのが順でございますけれども、駕籠屋さんが慣れていますから、高尾の裏山を突切ると言いました、五十丁峠の道をわけて、山道づたいに上野原へ出た方が、道は難渋《なんじゅう》でも、人目は安心でございます」
「いや、なにかとお世話になるばかりで、御恩報じもできないことを痛み入ります」
と竜之助は、焚火に手をかざして、その蒼白《あおじろ》い面に、いささかながら感謝の閃《ひらめ》きを見せると、女は、
「いいえ、どう致しまして、わたくしこそ、命を助けていただいた御恩が返しきれないのでございます」
「いつ、拙者が人の命を助けたろう」
「お忘れになりましたのですか」
女はその言葉に呆《あき》れたらしい。
「そなたに助けられた覚えはあるが、そなたを助けた覚えはありませぬ」
「まあ、ほんとうにお忘れになりましたのですか、あの、巣鴨の庚申塚のことを」
この時、女は、病気のせいでこの人の記憶が鈍《にぶ》ったのではないかと、まじめに疑いはじめたが、竜之助は、
「覚えていますとも……」
「それごらんなさいませ。あのことがなければ、わたくしはどうなっていたか知れません、いいえ、わたくしはあの時に殺されていたのです、それを、あなた様に助けられましたので」
その時の思い出が、女を堪えがたい羞恥《しゅうち》と感謝とに導く。
「そのとき助けたのは、拙者ではない、助けようと思ったのも拙者ではござらぬ。もしその時、そなたたちを助けようとした人、助け得た人があったとすれば、それは弁信といって、安房《あわ》の国から出た口の達者な、やはり眼の見えない小坊主の働きじゃ。拙者は人を助けはせぬ、助けようともしなかったのみならず……」
「いいえ、もうおっしゃらなくてもよろしうございます、なんとおっしゃってもわたくしは、現在あなた様に助けられているのですから」
女はひとり、それを身にも心にも恩に着ているのであった。人の過《あやま》ちは七度《ななたび》これを許せと、多数の私刑者の中に絶叫して歩いたのは、竜之助の言う通り、安房の国から出た弁信という口の達者な、目の見えない小坊主であった。しかるにその人は感謝を受けないで、この人がひとりほしいままに女の心中立《しんじゅうだ》てを受けている。怨み必ずしも怨みではない、徳必ずしも徳ではない。外では雨の音。
「さて」
と刀を取って引き寄せようとしたのは、待たしてある駕籠のことを慮《おもんぱか》ったのでしょう。
「まあ、お待ち下さいませ、まだよろしうございます、かまいませんです、みんな家の者同様の人たちなんですから」
最初には、上へあがることをさえ憚《はばか》った女が、今はかえって名残りを惜しんで、立たせともなき風情《ふぜい》であります。
「ああ、そうでした、わたくしはいつぞやお約束の餞別《せんべつ》を、あなたに差上げるつもりで持って参りました」
と言って、女は立って扉を押し、
「駕籠屋さん、あの刀をちょっとここへ貸して下さいな」
やや離れた行衣場《ぎょうえば》に、同じく焚火にあたり、無駄話をしていた二人の駕籠屋を呼びます。
三
女は駕籠屋《かごや》から刀箱を受取って、それを改めて竜之助の前に置いて、
「あなた、この刀には、なかなか因縁《いんねん》があるのでございます」
「何という人の作か、それを聞いておきましたか」
といって竜之助は、箱の紐に手をかけてほどきはじめました。
「ええ、銘がございますそうです」
「在銘ものか。そうしてその銘は?」
箱の中から萌黄《もえぎ》の絹の袋入りの一刀を取り出して、手さぐりで、その紐を払うと、女は燭台《しょくだい》をズッと近くへ寄せて、
「どうか、よくごらんなすって下さいまし、こういうものばかりは見る人が見なければ……」
「その見る人が、この通りめくらだ」
袋の中から白鞘物《しらさやもの》を取り出しますと、女は、
「それでも、心得のあるお方がお持ちになればちがいます」
といって、今更、燭台を近く引き寄せたことの無意味を恥かしく思います。
「重からず、軽からず、振り心は極めてよい」
「手入れの少ないわりには、さびが少しもついておりませぬ」
「なるほど。そうして刃紋《はもん》の具合はどうじゃな」
といって竜之助は、鞘を払った刀を、女の声のする方へ突き出して見せました。
「刃紋とおっしゃるのは……」
女はこころもち身を引きかげんにして、この時はじめて、傍近く引き寄せた燭台の存在が無意味でないことを知りました。竜之助の面《かお》と、突き出された白刃とを、蝋燭の光で等分にながめて、返事にさしつかえていると、
「刃紋とは、鍔元《つばもと》から切尖《きっさき》まで縦に刃の模様がついているはず、その模様が大波を打ったように大形についているのもあれば、丸味を持った鋸《のこぎり》の歯のように細かくついているのもある、或いは杉の幹を立てたようなのが真直ぐに幾つとなく並んでいるのもある、のたれ[#「のたれ」に傍点]というのもある、美しい乱れ形になっているのもあります」
「ございます、ちょうど、雨だれの簷《のき》を落ちる時のような同じ形が揃って、鍔《つば》の下から切尖まで、ずっと並んで、いかにもみごとでございます」
「あ、では五《ぐ》の目《め》乱《みだ》れになっているのだろう。それから、錵《にえ》と匂《にお》い、それは、あなたにはわかるまいが……銘があるとの話、その銘は何という名か覚えていますか」
「小さい時から聞いておりました、国広《くにひろ》の刀だそうでございます」
「国広……」
「はい」
「ただ、国広とだけか」
「ええ、国広の二字銘だとか、父が申しておりましたそうで」
「ああ、国広か」
竜之助にかなりの深い感動を与えたものらしく、刀を二三度振り返してみて、
「国広にも新刀と古刀とあるが、これはそのいずれに属するか、相州の国広か、堀河の国広か」
とひとり打吟じて、
「多分、堀河の国広だろう、ああ、いい物を手に入れた」
彼の蒼白《あおじろ》い面《かお》の色が、みるみる真珠の色に変ってゆくと、
「堀河の国広というのは、よい刀ですか」
「新刀第一だ」
その真珠色の面が刀の光とうつり合って、どこかに隠れていた血汐《ちしお》が、音もなく上って来るようで、気のせいか女の鬢《びん》の毛が、風もないのに動いて見えます。
刀を抛《なげう》ってここにほぼ百日。ようやく人の世の微光がその眼に宿りかけた時、再びこれに刀を与えた。要《い》らざる餞別《せんべつ》。与うべからざるものを与うるのが、女の常か。
四
雨のしとしとと降る中を、わざと甲州街道の本街道を通らずに、山駕籠に桐油《とうゆ》をまいて、案内に慣れた土地の駕籠舁《かごかき》が、山の十一丁目まで担《かつ》ぎ上げ、それから本山を経て五十丁峠の間道を、上野原までやろうとするのは、変則であってまたかなりの冒険です。しかし、駕籠屋が好んでそれをやるわけではなく、また乗る人が好んで、それを行きたがるわけでもなく、要するに女の特別の頼みと、駕籠屋が山上に住んでいて、往返《おうへん》の距離と案内においてかえって優れているせいと思われます。女は、そこまで見送って、別に一人の男をつれて、駕籠屋には駄目を押して、参籠堂から本道を家へ帰ってしまいました。
十一丁目までの間は、壁にのぼるような急勾配《きゅうこうばい》。それから道は緩《ゆる》やかになって、そこで駕籠屋
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