めて、いやな笑い方をして出て行きましたが、あれは山窩《さんか》の者かも知れません」
「ああ、山窩かも知れません」
と針妙のおばさんが、まだ慄《ふる》えの止まない声でいう。
「山窩?」
「おおいやだ、山窩の奴」
山窩、山窩と口々にいって、いやな顔をしてしまいます。
山窩は日本の国内にあって、定まった住所と籍とを持たない、一種の漂泊人種であります。彼等の起源は学者もよく知らないが、かなり長い歴史をもって今日に至っていることは確かである。彼等は多く春夏秋冬によって、なるべく気候の温暖清涼の地をそれからそれと辿《たど》り渉《わた》るという。秋の末から翌年の春にかけては太平洋の岸、東海道は房総の地から武相、伊豆半島から駿遠、或いは紀州から摂津、更に備前、備中、備後、安芸《あき》等、畿内《きない》から山陽道にわたって漂うのを常とし、これらの地を蚊が襲うようになると、彼等は東海道と東山道、或いは山陽道と山陰道との山脈間の村落、または北陸道方面を徒渉《としょう》するのを例とする由。
彼等の中には世を渡る偽りの職業として、箕直し、天の橋立、風車売り、猿廻し、蒲焼売《かばやきう》りなどを業とし、人里に立入って様子を見届けた上で、強盗に押入る者がある。
「山窩の生活」の著者のいうところによると、彼等はセプリ(天幕)を引揚げるまでに準備をととのえ、女子供は三十里の先へやっておいて、一夜に五軒十軒を荒して巧《たく》みにフケてしまう。そうして彼等の逃走の範囲は日本国中に及ぶ。しかしながら東海道の山間近いところが彼等の根拠地で、漂泊の彼等に、忘れ難い懐かしみの土地となっているらしいということである。
一同が山窩のことをいい出して、白け渡った時、
「あ、奥の先生は、どうしたでしょう、吉田先生は」
この時分になって、ひとり残された机竜之助のことが問題になりました。
「先生のところへ行って見ましょう。茂ちゃん、一緒に来て下さいな」
お雪は思い出すと、このことが、たまらないほど心配になったものと見え、茂太郎と、弁信と、三人づれで出かけましたが、暫くして安心の色をたたえて帰って来ました。
「あの先生は、何も御存じなく休んでいらっしゃいます」
三十三
その夜はこうして明けましたけれど、朝になって上野原の駅路|外《はず》れ、火《ひ》の見《み》櫓《やぐら》の下に、一つの恐怖が起りました。
そこに無残な死体が二つまである。鳥沢の馬方が一番先にそれを発見して、忽《たちま》ち黒山のように、起き抜けの人を集めてしまいました。
「斬られたんじゃない、食われたんだ、食われたんだ、狼か、山犬に食われたに違えねえのだ――」
誰が見ても、一見それと頷《うなず》かれる。二個《ふたつ》の死骸のどちらのも、ほとんど半分が食い散らかされている。で、山間の人は直ちに狼か山犬だと判断する。落ちていた二三の毛筋を拾って、これが狼様の毛に違いないというものがある。狼は時とすると、様の字で敬畏《けいい》を表象されることがある。
追々集まって来た人も、すべてそれに一致する。そうして食われた人間は土地の人でないことをも承認する。二人ともに頬冠りが食い残されているところを見れば、まさしく夜荒しをして歩いた悪者に違いない。いわば自業自得《じごうじとく》である。しかしながら、かりにも狼の出没するという形跡は、別に土地の人を恐怖させずにはおかない。今晩から夜歩きをことさら警戒せねばならぬ、若い者は集まって悪獣狩りをしなければなるまいという者もある。そのうち宿役《しゅくやく》たちも寄って来て、その所持品を調べてみると、中から金包が出た。その金包の紙をほどいて見ると、それには報福寺の印がある。そこで報福寺へ使が飛んで来た。
表沙汰《おもてざた》にしないようにとの、老住職の心づくしも無駄になって、どうしてもこの盗賊の被害者としての引合いを免《まぬか》れないところから、柔和な老住持はこれを苦にした。見兼ねて兵馬が、その衝《しょう》に当ることになった。兵馬とても、かかり合いはいやだけれども、こうなった以上は、自分が引受けた方がよかろうと、その現場へ出向いてみることに決心しました。
しかし、この寺に縁もない宇津木兵馬という名を名乗りたくない。この寺に親戚の者で、ちょうど泊り合わせた片柳なにがし[#「なにがし」に傍点]という名で、現場へ出向いてみようということ。
兵馬とても、同じように信じている。手傷を負った二人の者共が深夜を逃げのびて行く手に、食に飢えた狼――この辺には出没しそうなところで、事実またその出没を見届けたものも多いという――に襲われて、その毒牙にかかったものに相違ない、これ自業自得、天の配剤、というように観察して来て見ると、
「それ、お寺様からおいでになった」
道を開いて通してくれたから、兵馬は、その屍骸に近づいて見る。
それは、面《おもて》も向けられない惨憺《さんたん》たるもので、なるほど悪獣に食い散らされた残骸ということは、一見して兵馬にもわかる。またその頬冠《ほおかむ》りの体《てい》や、着物の縞柄《しまがら》を見ても、多分――ではない、全く昨夜の悪者共に相違ないと頷《うなず》かれたが、ただしかし、兵馬が、もう一層近く寄って、この屍骸を検視した時に、容易ならぬことを発見しました。
この屍骸は、二つとも斬られている――食われる以前に――その一つは左の肩からほとんど下腹部まで垂直に――他の一つは横なぐりに頭蓋骨を――それは実に水も堪らぬきりかたであると共に、尋常茶飯《じんじょうさはん》の如く慣れきったるきり手である。兵馬は舌を捲いて怖れました。
誰もが、食われたことを知って、斬られたことに気がつかない。物に慣れた検視ならば、やはり同じように戦慄《せんりつ》して、舌を捲いて、怖るべきものを、ここに集まっている人々は、誰もそこまで気がつかない。
「これはたしかに、昨夜入った賊共に違いござらぬ、この紙も、この金も、たしかに――しかしながら解《げ》せぬことは……」
兵馬は、実に、これだけのきり手を、如何様《いかよう》に想像し、如何様に判断すべきかに苦しみました。
これがために宇津木兵馬は、その日|発足《ほっそく》というわけにもゆかなくなりました。
しかし、食い散らされた死体のことは、誰も兵馬と同じ疑いを抱くものはなく、ただ狼が人を食うという噂《うわさ》のみが、駅路筋に伝わって、聞く人をして戦慄せしめるに留まったのは寧《むし》ろ幸いでした。ために、食い散らされた二個の死体は、町はずれの馬棄場《うますてば》へ持って行って埋められ、いっさいの責《せめ》が狼に帰せしめられてしまうと、自然、報福寺も宇津木兵馬も、これ以上のかかり合いからは免《のが》れた次第です。
けれども兵馬の胸には、解き難い疑問がいくつも残されているが、この際、まだ混乱から癒《いや》されない頭では、その一つを選んで熟考する遑《いとま》がない。
その日一日、兵馬は茫然として暮らし、夜になって、例の本堂へ休ませられる時に、蒲団《ふとん》をのべに来たのが、例の清澄の茂太郎であります。
「お床をのべて上げましょう」
「有難う」
その時、兵馬の頭にきらめいたのはこの少年だ。昨晩、哀願的に自分に向って妥協を申し入れたのは――
「おじさん」
「何です」
「昨夜《ゆうべ》のことは、誰にもいわないで下さいね」
「ああ、誰にもいいはしないが、あの狼はどうしました」
「山へ逃がしてやりました」
「君はいったい、どこからその狼をここへ連れて来たんですか……」
「ええ、あたいが、山へ行ってそっと連れてきたんですが……」
「昨晩、火の見櫓の下で、盗賊を食い散らしたのはその狼だろう」
「あたいもそうだと思うんです。ですから、それが知れるとよけい叱られちまうんですよ。けれども、もう大丈夫です、山へ逃がしてやりましたから」
「君は、どうしてまた、そんな怖いものをここへつれて来たのだ、狼が怖くはないのかね」
「山で遊んでいるうちに、あたいのあとをついて来て離れないものだから、ついお友達になってしまいました」
「狼と友達?」
兵馬は呆《あき》れてしまいました、この面立《おもだ》ちの可愛げな少年が、山へ行って狼と遊び、狼がそのあとを慕うて離れないというのは奇怪ではないか。
「ふん、それで、お前は狼が怖くはないのかね」
「怖かありません、大好きです。狼ばかりじゃありません、山の鳥や獣はみんな好きです。あたいが好きだから、向うもあたいを好きなんでしょう」
「で、その狼は、平常《ふだん》から、君が大事にして育てていたのではないのか」
「いいえ、昨日、山へ行って口笛を吹いたら出て来たんです」
「食いつかなかったの?」
「食いつきませんとも」
「不思議だ」
兵馬は驚嘆して、この少年の面《おもて》を見比べますと、別段、山男の落し児とも思われない目鼻立ちの清らかな少年に過ぎません。
「だけどもね、おじさん、あたいが一つおかしいと思うのは、ゆうべ、誰かあの狼をこの縁の下から連れ出した人があるんですよ。それは、泥棒の入った前ですね」
途方もないこと。この少年を別にして、どこの国に、狼を引張り込んだり、つれ出したりする奴がある。兵馬はこの少年の平気な面《かお》をかえって怖ろしいと思いました。
「そう無暗に狼を引き出したり、引込めたりする奴があるものか」
といいますと、
「いいえ、狼だって、そんなに怖いものじゃありません、こっちが怖がるから、向うも怖がるんでしょう」
語気によって察すると、この少年は山に行って、あらゆる悪獣毒蛇をも友とし得るの魔力か、無邪気さかを持っているらしい。
夜具を展《の》べ終った茂太郎は、大きな桐火鉢の縁《ふち》へしがみ[#「しがみ」に傍点]つくように坐り込み、
「おじさん」
兵馬はおじさんといわれるのがなんとなく擽《くすぐ》ったい。
「何だ」
「おじさんは剣術が出来るんだろう」
「それは少しは出来る」
「剣術が出来れば怖いものは無いんだね」
「そうもいかないね」
「荒木又右衛門と柳生十兵衛と、どっちが強いの」
「それは柳生十兵衛が強いだろう、先生だから」
「それでは柳生十兵衛と宮本武蔵では」
「それはわからない」
「おじさん、天草軍記《あまくさぐんき》の話をしてくれないか、寛永年間の天草軍記」
妙な無心をはじめたものです。
「君は話が好きかね」
「大好き。そのうちでも、あたい天草軍記が大好きなんだから、おじさん、知ってるなら教えておくれよ」
「わたしは、よく知らない」
「よく知らなけりゃ、少しでもいいから」
話を聞きたがってせがむ[#「せがむ」に傍点]ところは、世の常の少年と少しも変りはない。けれども、兵馬にはこの少年の知識慾を満足せしめるほど、天草軍記の知識を持っていないという引け目があるのと、もう一つは何か最初から気にかかることがあって、
「それより、拙者の方で君に聞きたいことがある、このお寺には君とあの弁信殿と、そのほかにまだお客があるの?」
「そのほかに吉田先生がいます」
「吉田先生とは?」
「あたいは知らないけれど、弁信さんがよく知っています」
「その人は何をしています」
「病気なんでしょう」
「どこにいます」
「あちらの奥の八畳の間に一人でいます」
「若い人ですか、お年寄ですか」
「どうだか知りませんが、そんなに年寄じゃないでしょう、お雪ちゃんと、よく話が合うくらいだから」
「君は、その人と会ったことはないのか」
「ありません。会わせてくれないんだもの」
「会わせてくれない? 誰が……」
「弁信さんが、あぶ[#「あぶ」に傍点]ないから、お前、あそこへ行ってはいけないと止めるから、あたい、一度も行かない」
「どうして危ないの」
「どうしてだか、それがわからないんです。ただ、危ないから、あのお部屋の傍へ寄ってはいけないと、無暗に弁信さんが止めるから、あたい、変だと思っているの。そのくせ、弁信さんは、自分じゃ平気で入って行くんだからね。でもこのごろはあんまり行かなくなりました。その代り、お雪ちゃ
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