みろくじながや》を出でて、江戸の市中をさまよう夜な夜なは、この姿で、この男の動くところには、必ず血が流れていたのに――今はもうその時でも、その所でもなかったろうはずなのに――ひらりひらりととめどもなく歩いて行く手は人里。
 自然は眠り、人は定まって、屋の棟も三寸さがる時に、悪魔は人の寝息を嗅《か》ぎに出る。
 昼は光明の世界、夜は悪魔の領分。
 光明の世界に働いた人は、闇黒の夜は寝てしまえばよい。闇黒を悪魔に与えてその跳梁《ちょうりょう》に任《まか》し、夢の天国を自ら守る人には、永久に平和が失われないのである。
 天真なる小児に、夜歩きをさせてはならない。
 老いて子に従うことを知る者も、また夜の悪魔の領分を犯してはならない。
 忠実なる昼の勤労の疲れを味わう人は、夜の酣睡《かんすい》をほしいままにし得るの特権がある。
 美しきも、美しからざるも、若い娘たちは夜歩きをしてはならない。
 恋があろうとも、なかろうとも、若い男たちは夜遊びにふけってはならない。
 親の死目に急ぐ旅でさえも、なるべくは悪魔の領分を犯さないがよろしい。
 善良な夫はその妻に夜歩きをさせない。貞淑《ていしゅく》なる妻は夜の夫の全部を自分のものとする。
 そうしておけば、悪魔はその食《くら》うべきものがなくなる。闇黒の世界に闇黒を食うて、ついに闇黒以外のものに累《るい》を及ぼすということがなくなる。
 夜眠らざる人は罪悪である。或いはその罪悪を守る人である。どうかすると火の番の廃止を恐れて、火をつけて廻る火の番さえある。
 ところで、悪魔は大抵はひとり歩きをするものである。ひとり歩きをする者の全部が悪魔ではないが――天才と悪魔とは往々ひとり歩きを好む。
 孤独は人を偉人にするか、或いは悪魔にすることがある。故に人は夜を怖るると共に、独《ひと》りを怖れなければならぬ。
 善良なる青年は早くよき処女を求むべきである。かくて良き夫はまたその妻に好き子供を産ましむべきである。良き子供はまたなるべく良き兄弟と、良き朋友《ほうゆう》の多くを持つのが幸いである。
 したがって、よき親はまた当然その子のために、よき配偶を心配する。
 偉人と悪魔のみが孤独である――しかし、この悲しむべき悪魔に、今宵は連れのあることが不思議です。
 机竜之助が、暗黒の世界に、ひとり闇黒の身を歩ませたその背後に、影の如く、形の如く、彼がとまればこれもとまり、これが歩めば彼も歩んで、ある一定の間隔を置いて、ドコまでもついて来る二つの黒い物影があります。
 これは何。犬に似て、犬よりは痩《や》せている。獏《ばく》というものに似て、獏よりは残忍。
 それは月見寺の本堂の縁の下にいました。竜之助が庭へ姿を現わした時分に、同じく縁の下から這《は》い出して、最初は少しく唸りましたけれども、やがて静かにそのあとを音もなく歩んで来るのみです。
 この二つの黒い物影は狼――送り狼という。物を見れば、それが転ぶところまでついて来る。その物の転ぶを待って、骨まで食《くら》いつくすのがこの狼の本性であります。
 そこで悪魔は二箇《ふたり》づれになりました。
 けれどもこの小規模のハイランドには、むざむざと闇黒の餌食となるほどの罪造りはいないと見えて、夜の領分を、夜の人が行くに任せて、驚く人も、驚かるるものもありません。
 黒影の人と、送り狼とが、或いは行き、或いはとまり、見えたり、隠れたり、ひらりひらりと夜遊びをしている深夜のハイランドの天地は、至極沈静無事なことですけれども、かえってその別の方面は、無事ではありませんでした。
 寺の本堂で熟睡に落ちていた宇津木兵馬。それを不意に呼び起すもの。
「モシ」
 この時早く、兵馬は眼をさまして脇差の下げ緒を手繰《たぐ》っていると、
「モシ、お目ざめでございますか」
 物を憚《はばか》る小さな声。
「どなたでござる」
「御免下さいまし、私はただいまこのお寺に御厄介になっております弁信と申す盲目《めくら》の小法師でございます」
「どうか致しましたか」
「はい、お静かに願います、お静かに――」
 おかしい物のいいぶりだと思いました。けれども、怪しい物のいいぶりだとは思いません。何かに怖れて、オドオドとしてやって来たもので、人を驚かそうとして忍んで来たものでないことは明らかです。自分がオドオドしながら、お静かに、お静かに、と暗いところを歩み寄って来るのが笑止といえば笑止だが、何かの変事を後ろに惹《ひ》いて来ていることは間違いなかろう。兵馬もおのずから固唾《かたず》をのむと、
「御免下さいまし、お休みのところをお驚かし申して甚だ失礼でございますが……」
 この際、馬鹿丁寧な前置はいらないはず。
「いったい、どうしたのです」
「あの、ただいまこのお寺に盗賊が入りましてございます」
「ナニ? 盗賊が……」
 それは聞き捨てにならない。
「でございますけれども、どうかお静かに願います、入りました盗賊は、たしか二人でございます」
「二人? 二人だけですか」
「エエ、二人だけのようでございますが、まアお待ち下さいまし、私はここで大きな声を致してよろしいか、また、あなた様に出合っていただいてよいか、それがわからないのでございます。なぜならば、もうあの二人の盗賊は、多分、住持の老僧と、お雪ちゃんという娘と、それから針妙《しんみょう》のお光さんというのを、三人だけ縛り上げてしまったようなのでございます。ここで声を立てようものなら、あの盗賊たちが怒って、あの三人を殺してしまうかも知れません。ですから、だまっていた方が無事でしょうか。知って知らないふりをして、盗賊たちに取るだけのものを取らせてやった方が無事でしょうか。それともほっておけば、いい気になって、針妙のおばさんや、お雪ちゃんがあぶないのではないでしょうか。私の思案には余りました。あちらにいる先生のところへ、そっと参りましたところが、いつもおいでのところにいらっしゃらないから、そこで、あなた様のことを思い出して御相談に上りましたのです。何を申すも、わたくしは目の不自由な小坊主でございますから……」
「こうしてはおられぬ」
 兵馬は脇差の下げ緒を口にくわえて、手早く帯を引結びました。
「あなた様、お出合いになりますか」
「聞き捨てになろうことか」
「けれども、あなた様、どうかもう一応お静まり下さいまし。人の危うきを聞いて難におもむくのは勇士の心とやらでございますが、それがために二重三重の災難の生ずることもございます、一旦のはじに目をつぶれば、とにかく目前の急から救われることもございますから……」
「かれこれといっている場合ではござらぬ」
 兵馬は案内知ったる庫裡《くり》の方へと進みました。     
 住持の居間では、たしかに人の言い罵《ののし》る声がします。兵馬は抜足《ぬきあし》して、その明け開いた襖《ふすま》の蔭に立寄ってうかがうと、弁信法師の報告はほとんど見て来たようで、住持は床柱の下に、お雪と針妙とはやや離れたところに、いずれも両手を結《ゆわ》えられ、猿轡《さるぐつわ》をはめられて、引転がされているところに、頬冠《ほおかむ》りした二人の兇漢が、長いのを畳へつきさして、胡坐《あぐら》を組んで脅迫の体《てい》は、物の本などで見る通りの狼藉《ろうぜき》です。
 こういう場合には兵馬は経験がないではない。そこで、もう一応見届けようと踏みとどまりました。それとは知らず二人の盗賊は、おちつき払って悽文句《すごもんく》を並べている。それとてもたいてい紋切形《もんきりがた》の悽文句で、この寺は裕福だと聞いて来たのに、これんばかりの端金《はしたがね》では承知ができねえ、もっと隠してあるだろう、有体《ありてい》にいってしまわねえと為めにならねえ、というようなこと。
 暫くあって一人の盗賊がつと立って、お雪の方へ寄りましたから、兵馬がハッとしました。盗賊の怖るべきは物を取るよりも、女を脅迫することである。兵馬はその例を京都でよく知っている。
「御免下さい」
 お雪の泣き声。それはお雪だけの猿轡を外《はず》したものです。
「静かにしねえと為めにならねえ」
 盗賊が物々しくその泣き声を抑えつけて、その次にわざと小声で、
「姉さん、これからお前は土蔵へ、おれたちを案内するのだ。さあ、鍵があるだろう、鍵を持って土蔵へ案内するがいい」
と、こういって脅迫しはじめたものです。
 その脅迫をのがるる由もないお雪は、強《し》いて手燭を持たせられて、二人の白刃《しらは》の間にハサまれて、この部屋を出ようとする時分、
「盗賊め――」
 といって飛び込んだ兵馬は、先に立った盗賊の真甲《まっこう》を一太刀きると、
「わッ!」
「やったな、それみんな、叩き切っちまえ」
 兵馬にきられたのが倒れる途端にお雪も倒れて、手に持たせられた手燭を取落す。この時一人の盗賊は心得て、部屋の行燈《あんどん》を蹴倒してしまったから、部屋は忽《たちま》ちに真暗闇です。兵馬は、すり抜けて、床柱の方に、三人の味方をかくまって立っていました。
 そこで、真暗闇の室内は、混乱驚愕の闇仕合となる。
 兵馬としては、これらの盗賊を斬るよりも、家中の者の安全を保護するが先である。盗賊共はこうなると、物を盗《と》るよりは逃ぐるが勝ちである。一人の奴が物慣れていると見えて、手当り次第にそこらの物を取っては投げつけるのは、隙を見て逃げ出すつもりに違いない。兵馬はその方角をみはからって、また飛び込んで斬ると、
「あッ!」
といったのは確かに手答えのある声。
 兵馬は賊の投げつけた枕を払って、その切先《きっきき》でたしかに賊の背筋を切ったらしい。
 その悲鳴をあとに、用意の雨戸を蹴外《けはず》して、二人の盗賊は外の闇に飛び下りてしまいました。
 あとを追いかけるよりは、内のものを看護するのが急である。そこで兵馬は、
「お怪我はありませんかな、お怪我は?」
といって、行燈の傍《かたわら》へ手さぐりして火をつけようとすると、
「お客様、有難うございました」
「おおお雪さん、無事でしたか、お怪我はありませんでしたか」
「ええ、おかげさまで助かりました」
「皆さん無事ですか、早く、あかりを欲しいものですな」
「はい、ここに」
といってお雪が探し当てた火打。あかりをつけて見ると、ありとあらゆる物を投げ散らかしたあたりの狼藉《ろうぜき》。血痕が襖にも障子にも飛び散っている。急いで、縛られた住持と針妙の縄目を解いてやると、いずれも死に近いほど恐怖はしていたが、怪我といっては別段にありません。
 やがて、それぞれ元気づいた後、兵馬はなお人々を励まして、ともかく、この事を役向へ訴え出づると共に、人を集めて盗賊の行方を追究させなければなるまいと言い出すと、柔和《にゅうわ》なる寺の老住持が言いました。
「まあお待ち下さい、表沙汰《おもてざた》にすることは見合わせが願いたい。皆々|身体《からだ》に怪我もなし、取られたのは少々の金、寺から縄付きというものを出したくもなし、あのくらい懲《こ》らしめていただけば、二度とこの界隈へ近寄るはずもなかろうから、何事もこのままに」
と、さすがは坊さんらしい意見で、この事は訴えもせねば、世間へも発表せず、これまでの災難とあきらめてしまおうということに一決しました。
 そこへ、弁信法師もやって来る。何か済まないような面《かお》をして清澄の茂太郎もやって来る。みんな寄ってたかって見舞やら、慰問やらで、賑やかなことになりました。
 なんといっても、一同の感謝は兵馬の上に集まり、よい人が泊り合わせてくれたことを喜ばずにはいられません。兵馬はまた、弁信法師の知らせ方の用意周到であったことを今になって讃《ほ》め、家の者は弁信の勘のよいことを、いまさらに讃めて兵馬に語りました。
 さて、盗賊の何者であるかということに就いて、兵馬は、どうしても多少案内を知り、この寺の裕福なことを頭に入れて来たものに違いなかろうというと、お雪が、
「それについて思い出すのは、昨日の日に箕直《みなお》しが来て、妙にジロジロわたしの面をなが
前へ 次へ
全34ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング