の時に、あなたは、え、何を思い立ったのですか、と聞き直しましたね、それが、わたしの胸へハッと響きましたよ」
「それは、どういうわけですか」
「いいえ、そのわけをあなたに聞いてみたいのですよ」
「私は、そう思ったから、そう聞いてみただけなんですが……」
「ね、弁信さん、わたしが急に思い立ったといったのと、あなたがお手廻しがようございますねといったのは、別々の心持でしたねえ」
「そうですね、今から冬物の仕度をなさるのはお手廻しのよい方で、急に思い立ったとおっしゃるのとは調子が合わないようですから、何の気もなしに私は、何を思い立ったのですか、とお聞き申してみたのです」
「弁信さん、聞いて下さい、わたしは、こういうことを思い立っているんですよ。あのね、盲目《めくら》の先生を湯治《とうじ》に連れて行って上げたいと、そう思い立ったのが先で、それから冬物の仕度にとりかかりましたのです」
「え、あの先生を湯治にですって?」
「そうですよ」
「どこへですか、どこへ湯治にお連れなさるというのですか」
「それはずいぶん遠いところですけれども――」
「遠いところ――なるほど、この近辺には温泉というものは聞きませんね」
「ええ、武蔵の国にも、甲斐《かい》の国にも、温泉らしい温泉はございません」
「そうです、その代り隣国の信濃《しなの》と相模《さがみ》には、たくさんの温泉がございます」
「弁信さん、わたしは先生を、信州のお湯へ連れて行って上げたいと思っているのです」
「信州はドチラのお湯ですか」
「信州もズット奥の方なんですよ」
「信州の奥――信州はこの甲斐の国よりもいっそう山が遠く、日本の国の天井になっていると聞きましたが、その信州の奥?」
「ええ、信州もズット奥、飛騨《ひだ》の国の境の方になるのだそうです」
「飛騨の国の境ですか」
「そうです、そこに白骨《はっこつ》のお湯というお湯が湧いているんだそうです。そこへ入りますと、難病がみんな癒《なお》るのだと久助さんが教えてくれました。一冬そこに籠《こも》っていれば、どんな難病も癒ってしまいますそうで、丈夫な身体の人が入れば、一生涯無病で暮らせるそうでございます」
「ははあ、久助さんが、そういうことを教えたものだから、お雪ちゃん、あなたは直ぐその気におなんなすったのですか」
「そうではありません、わたしが久助さんに尋ねたのです、どこぞよい湯治場はありませんかと。そうすると久助さんが、いろいろのお湯を教えてくれましたけれども、ほんとうに命がけで難病を癒そうとするならば、山は深いほどよく、そこに一冬籠るがよいと教えてくれました。つまり、そこで久助さんが、白骨のお湯……を名ざして詳しく教えてくれました」
「そうしてお雪ちゃん、あなたはなんですか、その山深い白骨のお湯へ、先生と、久助さんと、三人きりで、これから一冬を籠ろうという決心なんですね」
「ええ、今から出かけて行って、そうして雪の山の中に冬を過ごして、来春、暖かくなりはじめた時分に――その時、あの先生のお目も癒り、わたしも、少し弱いのですから、すっかり身体が癒ってしまえば、こんな結構なことはないじゃありませんか。第一、死んだ義姉《あね》がどのくらい喜ぶか知れません」
「お雪ちゃん、あなたはほんとうにまだ子供ですね」
「何をいってるの弁信さん、急に人をからかい[#「からかい」に傍点]出して」
「お雪ちゃん、あなたは幾つにおなりなさいますか」
「ほんとにおかしな弁信さん……」
「私は、お雪ちゃん、あなたはもう年頃の娘さんだとばっかり思っておりますのに、そういうことをおっしゃるのだから驚いてしまいます。信濃の国の白骨のお湯とやらが良いお湯と聞いたばっかりで、その間の道中がどのくらい難渋だか、そのことをあなたは考えておいでになりません。またその難渋の道中をつれだって行く人たちが、善い人か、悪い人か、それも考えてはおいでになりません――私がここでうちあけて申し上げますと、あなたはその白骨のお湯へおいでになった後か、その途中かで、キッと殺されてしまいます、いきては帰ることができません」
「まあ――」
「お雪ちゃん、病《や》んでいる人を癒す白骨《はっこつ》のお湯は、またいきた人を白骨としてかえす力のあることを御存じはありますまい」
「いやなことを――せっかく思い立ったものを、ケチ[#「ケチ」に傍点]をつけるものではありません、それもほかのことと違って」
「いいえ、決してケチ[#「ケチ」に傍点]をつけるのではございません。お雪ちゃん、あなたは義姉《ねえ》さんの志をついで、あの先生に再び日の目を見せて上げたい、それが死んだ義姉さんへの供養《くよう》と思っておいでになる志はよくわかりますけれども、それをする時には、あなたはやはり義姉さんと同じ運命を覚悟しなければなりませんよ」
「何ですって、弁信さん、あなたのおっしゃることがわかりません」
「私にはよくわかります。お雪ちゃん、このごろあなたは、あの先生を好きになっているのでしょう、自分では気がつかないながら、最初のうちは気の置ける、気味の悪い人だと思っていた人を、このごろになっては、だんだん惹《ひ》きつけられて、好きになってゆく心持が、目に見るように私にはわかるのです。それですからあなたは、白骨のお湯へ殺されに行くのを自分で知らないで、自分で楽しみにしているのです」
「弁信さん、そういうことをいってはいけません……あの方のお目を明るくしてあげたいというのが義姉さんの志なんですもの、遺言同様の願いじゃありませんか。わたしがあの方を、好くの好かないのなんて」
お雪はここで、真赤になっていいわけを試みました。弁信はそれを肯《うけが》おうともしませんで、
「ああ――私が傍にいなければ、あなたという人は、もう疾《と》うの昔に殺されてしまっていたのです」
弁信はこういって、深い嘆息を洩らしました。
「弁信さん、もう、そういう話は止めにしましょう、あなたは、いつぞやもそんなことをいいました、義姉《あね》を殺したのはあの先生だといい出して、わたしはヒヤヒヤしてしまいました」
「お雪ちゃん、わからないのですか、私のいっていることが」
「もう、止めて下さい、殺すとか、殺されるとか、そういうことを、わたしは聞くのはいやでございます」
お雪が座に堪えないほどの心持を、言葉の調子で見て取った弁信は、穏かに、
「悪うございました、ついまた口が出過ぎました。では、左様な忌《いま》わしい言葉は使いませんが、それでも、言いかけた心持は、言わないではおられないのが私の気性でございます……ただもう一言《ひとこと》いわせて下さい。心あっても、なくても、あなたはあの先生を好きになってはいけません、好きになると殺されます……どうも失礼を致しました」
といって弁信法師は、いわん方なき悲痛の色を浮べて、そこそこに辞してこの室を立ち出でました。
急に暗い心になったお雪は、また気を取り直して、湯気の立った鉄瓶から、お盆の上の急須《きゅうす》へお湯を注《つ》いで、別の襖《ふすま》をあけて徐《しず》かにこの部屋を立ち出でました。
お雪がお盆の上へ急須を載せて持って来た部屋は、机竜之助の籠《こも》っている部屋です。竜之助はこの時、起き直って座蒲団の上にチャンと坐り、刀を抜いて拭いをかけておりますと、
お雪が、
「お茶を召上れ」
「これは有難う」
「先生、その刀ですか、義姉《あね》があなたに差上げたのは」
「これではありません」
「今も、弁信さんがいやなことをいいました」
「弁信が……」
「あの方はよい方ですけれども、時々変なことをいい出すので困ります」
「勘がよすぎるのだ」
「でも、気になってたまりませんもの」
「何をいいました」
「お怒《おこ》りにならないように。弁信さんがいいますには、私が傍にいなければ、お雪ちゃんというものは、疾《と》うの昔にあの先生に殺されてしまっているのだと、こういいました。そういわれた時に、わたしはゾッとしました」
「でたらめをいう奴だ」
「なんぼなんでも、あんまりじゃありませんか。弁信さんは先生のことを、人さえ見れば殺したくなる悪人のように思っているんじゃないでしょうか。この間も……あなたの前で、あんなことをいい出して、わたしはお気の毒で、お気の毒でたまりませんでした」
お雪はお茶をすすめるのも忘れて、竜之助の刀の下に戯《たわむ》れている。戯れているのではない、刀そのものの危ないことを知らないのです。無知と大胆とは、いつも隣り合っている。
「お雪ちゃん、これが、あなたの義姉《ねえ》さんから貰った刀です」
竜之助は拭った刀を壁へ立てかけて、別に例の白鞘《しらさや》の一刀を取り出しました。
「そうですか」
スルスルと拭いて見せた刀を、お雪は無邪気にのぞき込んでいると、竜之助が、
「比べてみたところが、実によいあんばい[#「あんばい」に傍点]に、元のそちらの刀の鞘へはま[#「はま」に傍点]るのです、目釘《めくぎ》の穴までが、ピタリと合うのは誂《あつら》えたようですから、少し手を入れて、中身を入れ替えてみようとしているところです」
「それは、ようござんしたね。それで、先生、どちらの刀がいい刀なのですか」
「それは無論、こっちの方が……義姉さんから貰ったのがいい刀です」
といって竜之助は、前と同じように拭いはじめました。
「ですけれども、刀には祟《たた》りがあるということですから、御用心をなさいまし」
「祟りのあるほどの刀は、いい刀なのだから、人によってはそれを好きます」
拭い終った竜之助は、その刀を前と同じように壁へ――抜身のままで紙を枕にして、手さぐりに立てかける拍子に、どうした小手の狂いか、以前に立てかけてあった刀がカラカラと倒れました。それを引起して立て直そうとすると、今度は後ろに立てたのがスルスルと壁から横っ走りをはじめます。
「先生、わたしが立てかけて上げましょう」
お雪が見兼ねて手を出すと、その手を追っかけるもののように、刀はお雪の方へスルスルと横っ走りをして来ましたから、
「おお怖《こわ》い」
せっかく手出しをしたお雪が、恐れてその手を引込めると、竜之助は早くも一方を立て直して、一方を手に取り上げ、手さぐりで、その目釘を抜きにかかると見えます。
「お雪ちゃん、そこの火箸を、ちょっと貸して下さい」
「はい」
目釘を押すための火箸を取って、お雪が竜之助の手に渡そうとする時、つい、着物の裾がからまって、用心しながらいま立てかけた刀を、カラカラとひっかけると、
「あれ、危ない――」
面《かお》の色を変えたお雪の膝の上へ、心あるもののようにその刀が落ちかかりました。お雪はハッと飛びのくと、その煽《あお》りで、その刀がまた横に飛んで、ちょうど、目釘を押えている竜之助の方へ飛びかかったものですから、その柄《つか》で竜之助がそれを受け止めた形は、刀と刀とが絡《から》み合ったようです。
「先生、今のをごらんになりましたか」
お雪は、真蒼《まっさお》な面《かお》の色になっていました。
「ああ、先生にはおわかりになりますまいが、今のはこの刀が、わたしに飛びついて、それからまたあの刀へ飛びついたのです。刀がいきていました」
竜之助は頓着せず、二つの刀を押並べて、火箸のさきでその目釘を押し抜いて、今や、その中身の入替えにかかろうとするのを、お雪は唇の色まで変って、苦しそうに、
「お待ち下さいまし。先生、わたくしは、その刀は入替えをなさらない方がよいと思います、どうも今のことが不吉でございますもの……今、その刀がわたしの方へ飛びかかる時に、わたしの眼の前へ、ちらりと義姉《ねえ》さんの姿が浮びました。義姉さんが怖い目をして、およしといって、わたしを睨めた時に、この刀が、わたしに向って飛びついて来たように、わたしには思われてなりません。きっと、その刀は、その鞘に納まるのがいやで、こちらの刀は、自分の鞘へほかのものを入れるのがいやなんです、それに違いありません、そうとしきゃわたしには思われません。いやなことを無理になさると、きっと怖
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