よいよ御冗談です、旦那」
「冗談ではない、ちと急ぎの用があって、甲州の松里村というところまで行きたいのじゃ」
「え、甲州の松里村ですって? のう相棒、それじゃあまた御相談を仕直さなくっちゃならねえ」
「お前たちが甲州まで続かなければ、甲州街道を行けるところまで走ってくれ、そこで宿駕籠《しゅくかご》に移るとしよう」
「なるほど、これから新宿を突走《つっぱし》って、甲州街道を行けるだけ急げとおっしゃるんですか。ようございます。相棒、お客様は宿次《しゅくつ》ぎとおっしゃる」
「合点《がってん》だ」
「時に旦那、そうなりますというと、御如才《ごじょさい》もございますまいがねえ……」
「よしよし、大概のところは心得ているから安心してやれ」
そこで兵馬は、二朱銀を幾つか紙に包んで与える。
「旦那はわかっていらっしゃらあ、急ごうぜ」
「どれ」
そこで、駕籠屋は棒鼻を向け直して、別の方向に走ること暫くあって、
「旦那、茶飯《ちゃめし》が参りましたから、ひとつ腹をこしらえて参りとうございます」
夜店の茶飯屋で一人はあんかけ豆腐で茶飯をかき込む、一人は稲荷鮨《いなりずし》を腹いっぱい詰め込んで、
「さて、旦那、旦那も一ついかがでございます、茶飯にあんかけ豆腐、稲荷鮨――これから町を離れますと、こういうものがちょっとございませんぜ」
「要らない。さあお前たち、わしは少し腹工合が悪いから、途中、飲物も食物も取らないつもりだ、通しでやろうとも、宿次ぎでやろうとも、一切お前たちに任せるから、こちらから求めるまでは、一切わしには挨拶なしでやってくれ」
「よろしうございます、そのつもりで一番馬力をかけようぜ、相棒」
「合点だ」
駕籠《かご》はまたもや走り出す。どうも揺れが以前よりは烈しいようです。
言われた通り、彼等はいっさい兵馬に挨拶なしで、兵馬もこれ以来註文なしで、ひたすら甲州街道を走るようです。
さてまた急に兵馬が、甲州松里村を名ざして急がせるようになったのはなぜか。その辺で敵《かたき》の当りがついたのか。松里村には名刹《めいさつ》恵林寺《えりんじ》があって、そこは兵馬に有縁《うえん》の地。
これは兵馬としては贅沢《ぜいたく》な旅行です。やむことを得ざる必要以外には、今まで馬駕籠に乗ったこともなし、乗るべき身分でもなし、かえって旅装かいがいしく草鞋《わらじ》がけか、或いは足駄がけで、さっさと五里十里の道を苦としなかったもの、それを今は、大風《おおふう》に通し駕籠でなければ宿次ぎで、甲州へ急がせようとする。
兵馬の目的には頓着なく、存外|鷹揚《おうよう》な客と見たので、駕籠屋は勢いよく急がせる。そのうちに、前後でしきりに聞ゆる鶏犬《けいけん》の声。夜は白々《しらじら》と明け放れたものと見ゆる。やがて道筋が明るくなって、行き交う人馬の音が繁くなる。まさしく朱引内《しゅびきうち》を離れて、甲州街道の宿駅を走っているのだ。
よき程あって、駕籠がとまる。駕籠屋は一息入れているのであろうが、註文通り、兵馬には一言の挨拶もなく、やがてまた、同じ駕籠を担ぎ出したところを見ると、問屋場《といやば》ではなかったらしい。
かなり正午《まひる》とも覚しい頃、駕籠はまたしても置き放されて、人の罵《ののし》る声がやかましい。駕籠屋どもは昼食に一膳飯へでも入ったのだろう。相変らず約束を守って、兵馬には飲めとも食えともいわない。人の騒々しさから察すると、この辺は多分、府中の宿あたりだろう。おや、再びこの駕籠が動き出したところを見ると、駕籠屋どもは通しをやるつもりかな。甲州までには、小仏、笹子の両難所を控えて三十余里の道、ひととおりの痩我慢《やせがまん》ではやれまいに、ともかく、やるだけやらせてみろ。
かくて、兵馬を載せた四つ手駕籠は、そのままで走り出す。その日中《ひなか》一日走り通したことを兵馬は覚えている。無論この間には立場立場《たてばたてば》で多少の息は入れるが、彼等は一生懸命で通しをやっているものに相違ない。兵馬は飢えが迫ってきた、咽喉《のど》がかわいてきたけれども、一言もそれを要求しない。日が暮れかかったと思う時分に、ただ一回お関所の調べを受けた。それは小仏の下の駒木野の関所であろう。それから後に兵馬は眠くなった。
飢えもかわきもある程度で、駕籠に揺られていると幾分の快感が起る。それとも身心が疲労の末か、兵馬は眠くなり、小仏を越したと覚しい時分には、もう四辺《あたり》は真暗で、事実上の深山幽谷へ駕籠をかつぎ込まれたもののようです。
疲労と快感で駕籠の中に眠っている兵馬。その眼前に、
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「真蒼《まっさお》な面《かお》」
「真蒼な面」
「真蒼な面」
「真蒼な面」
[#ここで字下げ終わり]
が後から後へと流れて行く。兵馬の眼前へ来て、その面が二つに分れて、左右へ流れて行く。それを見ると、昏々《こんこん》としていよいよ眠くなって幽冥の境へ誘われる。
ハッと途切れたのは、駕籠屋が峠の道で物につまずいたのであろう。それからは兵馬の眼前に、
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「悪女大姉」
「悪女大姉」
「悪女大姉」
「悪女大姉」
[#ここで字下げ終わり]
が、後から後へと流れて行く。やはり兵馬の眼前へ来て、その文字が二つに流れ去る。真蒼《まっさお》な面と悪女大姉とが、白蝋のようにもつれ[#「もつれ」に傍点]て火焔の如くに飛ぶ。その真蒼な面が、ある時は想像の机竜之助の如く、或る時は一撃に打たれて倒れた兄の文之丞の如く、悪女大姉は文字の如く、絵の如く、糸の如く、幻《まぼろし》の如く、消えては現われ、現われては消え、からみつき、ほぐれ出し、物に触れて駕籠が烈しく揺れるたびに、いったん途切れてまた現われる。
夜中のある時、駕籠があるところへ、ドッと置かれたと思うと、幻が消えて眼前に現われた大入道。ブン廻しで描いたような、まんまるい、直径六尺もあろう……という顔。オホホホホと笑って眠るが如く、笑うが如く、半眼でながめているのは慢心和尚の面。
通しであったか、宿次ぎであったか、それさえもわからず、ようやく甲斐国東山梨、松里村の名刹《めいさつ》恵林寺《えりんじ》の門前に着いた宇津木兵馬。
へとへとに疲れて、慢心和尚に面会を申し入れると、無事に入室を許されるには許されたが、
「何しにおじゃった」
例のブン廻しで書いたような真円《まんまる》い面《おもて》に、拳を入れて余りある大きな口、眠っているような細い目の中からチラリと白い光を見せられた時は、いい気持がしませんでした。
「実は……」
兵馬が何かいい出そうとすると、
「どうだい、宇津木、敵討商売《かたきうちしょうばい》は儲《もう》かるか」
「儲かりません」
ぜひなく兵馬もこう答えてしまいますと、
「儲からない? 儲からない商売を、いつまでもやっている奴があるか」
といって慢心和尚が居丈高《いたけだか》に叱ると兵馬は、
「それでも……」
「何がそれでもだ」
慢心和尚は頭からガミガミと怒鳴《どな》りつけて、
「何がそれでもだ、お前の面《つら》を見ると、いつでも敵討《かたきうち》が丸出しで、おれは昔から大嫌いなのだ、敵討というやつは全くおれの虫が好かない」
「いいえ、左様なわけではございませんが……」
「そういうわけでなければ女のことだろう。敵をたずねて歩く奴と、女の尻を追い廻す奴ほど、気の利《き》かない奴はないものじゃ」
「全くその通りでございます、全く私は腑甲斐のない、意気地のない、気の利かない奴の骨頂なのでございます……」
「何、何といった……腑甲斐のない、意気地のない、気の利かない奴の骨頂だと自分で知ったら、ナゼ早くくたばって[#「くたばって」に傍点]しまわないのだ、この娑婆《しゃば》ふさげの馬鹿野郎」
と言ったかと思うと慢心和尚は、いきなり手で、兵馬の横面《よこづら》をピシャリと打ちました。
「あッ!」
兵馬としては、その掌《てのひら》を避ければ避けられたのかも知れない。或いはまた避ける隙も、余裕もないほどに、和尚の手が早かったのかも知れない。ともかく、ピシャリと一つ打たれてしまいました。
「ざまを見ろ!」
「恐れ入りました」
「何が恐れ入った」
「何もかも、もう駄目です」
「何が駄目だ、この馬鹿野郎」
慢心和尚はヒドク怒っていると見えて、この悪罵と共に、三たび、拳を上げて、兵馬の首をピシャリと打ちました。兵馬は脆《もろ》くも打たれたままで、悄《しお》れ返っていると、立ちはだかった慢心和尚が、
「万能余りあって一心足らずというのが貴様のことだ、馬鹿なら馬鹿で始末がいいが、なまじい腕の出来るつもりが癪にさわる、この猪口才《ちょこざい》め」
といって慢心和尚は、続けさまに兵馬を打って、打って、打ち据《す》えました。
「恐れ入りました」
「恐れ入ることはないわい」
すこしの仮借《かしゃく》もなく、打って打ち据えて、とうとう兵馬をそこへ打ち倒してしまいました。
「和尚なればこそ……」
打ち倒されながら兵馬が、やっとこれだけのことをいうと、慢心和尚は透《す》かさず、
「生意気千万、何が和尚なればこそだ、和尚なればこそどうしたのだ」
打ち倒された上を更に滅多打ち。兵馬の髪は乱れる、刀、脇差は飛ぶ。
「和尚なればこそ、このお慈悲……」
「ナニ、お慈悲だ? もっと擲《なぐ》られたいのか、この骨無しめが!」
といって、打ち倒した兵馬を突き飛ばすと、慢心和尚は足をあげて兵馬を蹴って蹴りつけて、座敷の中を蹴ころがして、縁へ蹴落し、縁にひっかかっている兵馬を、地面の上へ蹴落してしまいました。
三十
上野原の月見寺では、お喋《しゃべ》り坊主の弁信が、仏前の礼拝を済まして廊下を戻って来ると、お針をしていた雪ちゃんが、
「弁信さん」
「え」
「お入りなさいな、お茶を入れますから」
「有難うございます」
そこで雪ちゃんは、縫物を片づけて、火鉢の鉄瓶に手を当ててみて、炭をかき立てると、弁信はもうピタリと座敷へ着座をしてしまいました。
「茂ちゃんはいませんか」
お雪がいうと、
「いいえ、あの子はまた山遊びなんでございましょう」
と弁信が答える。お雪ちゃんは早くもお茶をいれて、お盆の上へお煎餅《せんべい》を盛り上げて弁信の前へ出し、
「お煎餅を一つお上りなさいな」
「へえ、有難うございます、遠慮なくいただきますでございます」
弁信はおしいただいて、お茶を呑みます。
「さあ」
お雪ちゃんは、お煎餅を二枚はさんで弁信の掌《て》の上にのせてやり、
「甘いのがようござんすか、辛《から》いのがお好きですか」
「ドチラでもよろしうございます、結構でございます、そうしておいて下されば、わたくしが自由に頂きますから」
「茂ちゃんも来るといいんですがね、呼んでみましょうか」
「いいえ、あの子は人間と遊ぶよりは、山で兎や蛇と遊ぶのが好きなんですから、ほうっておきましょう」
「そうですか」
お雪は弁信にお茶と煎餅を与えて、自分はまたお針仕事にとりかかると、
「お雪ちゃん、御精が出ますねえ」
「いいえ」
「何を縫っていらっしゃるの」
「何でもありません、冬物の仕度を少しばかり……」
「そうですか、お手廻しがようございますねえ」
「急に思い立ったものですから」
「え、何を思い立ったのですか」
「弁信さん」
お雪は、ちょっと針の手を休めて、弁信の面《かお》をながめる。
「何でございます」
「あなたは、人の心持が前以てわかるんですってね」
「何をおっしゃるのです、それはわかることもあれば、わからないこともありますよ。あたりまえでしょう。私は人様のように、目でもって様子を見ることができませんから、勘でおおよそのところを察してみるのです。それが当ることもあれば、当らないこともあるじゃありませんか」
「ですけれども、弁信さん、あなたは人並みの目の見えない方より、ズット勘がいいんですね。その証拠には、たった今だってそうですよ」
「たった今が、どうか致しましたか」
「今わたしが、急に思い立ったといったでしょう、そ
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