駒井甚三郎が、耶蘇の教えを、もう少しまじめに研究してみようとの心を起したのは、この時からはじまります。
 翌朝、例によって金椎の給仕で――この少年は支那料理のほかに、多少西洋料理の心得もあります――朝餉《あさげ》の膳に向うと、造船小屋の方でしきりに犬の吠える声。造船小屋には常に二頭の犬を飼って置いて、駒井は警戒と遊猟との用にあてているが、滅多にはない外来客がある時は、まずこの犬が吠え出しますから、隔たった番所にいて、駒井は犬の声によってまず、珍客のこの里へ訪れたことを知るのであります。
 今日は早朝から珍客、箸を取りながら窓の外をながめると、激しく吠えていた犬の声が、急に弱音を立てて逃避するもののように聞えます。最初には珍客に向っての警戒と威嚇の調子で吠えていたのが、急に恐怖の調子に変ってきましたから、駒井は「敵が来たな」と思いました。敵というのは自分に対する敵ではない、犬共にとっての強敵が現われたのだということを、駒井は経験の上から覚《さと》って、直ちに他郷から彼等の同類の強敵が、ここへ入り込んだのだなと、箸を上げながら外を見ると、まもなく、二頭の飼犬が、後になり先になり、或いは吠え、或いは唸り、見慣れない一頭の巨犬《おおいぬ》を遠巻きにして、こちらへ進んで来るのを見受けます。
 食事中、駒井はこの窓外の物々しい風景を興味を以てながめました。見慣れない一頭の犬は、ほとんど小牛を見るほどに大きく、逞《たくま》しく、真黒な犬で、急ぎ足で、まさしく自分たちの番所の方へ進んで来るのに、二頭の番犬は、それを、ひたすらに恐怖しながらも、しかも自分の職責を怠《おこた》るまいと、引きずられて来る有様です。
「ははあ、大きな犬がやって来たな」
 件《くだん》の大犬は、ほとんど駒井の見ている窓下まで近づいて来た時に、駒井はその犬の首に何物かが巻きついていることを知るとともに、その犬がどこかで見たことのある……と思った瞬間に叫びました。
「ムク」
 おお、これはムクだ。甲府勤番支配であった時、わすれもせぬお君の愛犬。その人にも、この犬にも、無限の思い出がなければならない。それと知るや、駒井は箸を捨てて立ち上りました。
「ムク」
 犬は駒井の姿を見、その声を聞くと共に、勇みをなして飛んで来る。駒井は縁先へ出てそれを迎える。
「ムク、お前はどうしてここへ来た」
 あやしみ、喜びながらもまず気になるのは、その首に巻きつけられた、五寸ほどに切った竹筒を、麻の縄で両方からムクの首に結《ゆわ》いつけてあるもの。駒井は、その竹筒を外して見ると、中に一通の書状、手は女で文言《もんごん》の意味は、
[#ここから1字下げ]
「駒井能登守様。
殿様は今、どちらにおいでなさるか存じませんが、私はお君様に代って、殿様に悲しいお便りを申し上げなければなりません。
この十三日に、お君様は亡くなりました。お君様は亡くなりましたけれども、若様はお丈夫でございます。お君様のくれぐれの遺言もございますから、このことをどうぞして殿様に一言《ひとこと》お知らせを致したいと苦心致しましたが、私共の手ではどうしてもわかりません。ふと思いつきましたのはこのムクのことでございます。ムクは強い犬で、りこうな犬ですから、ムクを放してやれば、殿様にこのことをお伝えすることができるかと思いまして、このように取計らいましたのは、本所相生町の御老女様の屋敷にいる松でございます。
若様のお名は能登守の一字を戴いて『登』様と仮りに私が申し上げていることをお許し下さいませ――」
[#ここで字下げ終わり]
 その手紙を持ったままで駒井甚三郎は、自分の部屋へ入ってしまいました。そうして、寝台の上に身を横たえて、頭から毛布をかぶって枕を上げません。程経て金椎《キンツイ》が、その扉《ドア》を押してみたけれどもあかない、叩いてみたけれども返事がありません。
 常に、ことわられていることは、研究に熱心の際は外物のさわりがある。扉に錠《じょう》を卸した時には、軽く叩いてみて返事がなければ入るなと、こう命ぜられてあるから、金椎はその掟《おきて》を守って引返しました。
 引返して見ると、使命を帯びて来た巨犬《おおいぬ》は、神妙に以前のところに控えている。金椎は心得て、それに飲物と食物とを与えました。
 その日一日、ついに駒井甚三郎はその部屋を出でませんでした。こういうことは必ずしも例のないことではない。不眠不休で働いた揚句、二日二晩も寝通したことさえ以前にあるのだから、金椎はそれを妨げに行こうともしなかったが、夜に入っては、さすがに不安でした。
 以前の巨犬は、何か返事の使命を待つものの如く、また使命の重きに悩むものの如く、首垂《うなだ》れて、おとなしく控えている。
「ワンワン、こちらへおいで」
 金椎は犬を導いて、自分の室の一隅に入れ、犬と食事を共にし、祈りを共にして、その夜の眠りに就きました。
 翌朝、例刻にめざめて、例の通りまず主人の部屋を訪れて見ると、昨日は固く鎖《とざ》された扉《ドア》が、今日は押せばすぐにあきました。金椎は、
「お早うございます」
 室内に入って見ると、机にも、腰掛にも主人の姿を見ず、寝台の上はもぬけの殻《から》で、人の影はありません。机の上を見ると、常用の大型のノートに一枚の紙が物いいたげにハサまれているのを見る。金椎は心得て、その紙片を取って見ると、主人の筆でサラサラと、
[#ここから1字下げ]
「金椎ヨ、余ハ急ニ感ズルコトアリ、今朝ヨリ暫時ノ旅行ヲ試ミントス。行先ハ江戸、滞留及ビ往復ノ日数ヲ加ヘテ多分十日以内ナルベシ。留守中ノ事ヨロシク頼ム。昨日、使ニ来リシ犬ハ、最モ愛スベキ忠犬ナレバ、ヨクイタハリ、カヘルトモ、留マルトモ、犬ノ意志ニ任セテサシツカヘナシ。
  二十一日午前一時[#地から2字上げ]駒井」
[#ここで字下げ終わり]
 それを読んで金椎は、まだ充分の納得《なっとく》がゆかないながら、ひとまず安心しました。そこで、紙片をしまい、ノートの開かれたところを見ると、まだインキのあとの生々しい文字が目にうつる。この置手紙と前後して、主人が筆を走らせたのに相違ない。
[#ここから1字下げ]
「死ハ万事ノ終リカ。
彼ノ女ノ罪ハ祖先ノ罪ナリ。
駒井ノ家ノ系統ヲタヅヌルニ、清和源氏ニ出ヅルモノノ如シ――然レドモ――彼ノ女ニ対スル余ノ愛ガ彼ノ女ヲ殺シ、彼ノ女ノ愛ガマタ余ノ生涯ヲ一変セシメタリトヤイハム。
何故ニ余ハ最後マデ彼ノ女ヲ愛シ能ハザリシカ。彼ノ女ハ何故ニ最後マデ余ニ愛セラレザリシカ。
金椎ノ談ニヨレバ、救世主ハ大工ノ子ニシテ――耶蘇ノ教フルトコロニヨレバ、娼婦、税吏、異邦人、姦淫セル女等ガ却ツテ、驕慢ナル権者、偽者ナル智者、学者ヨリ光栄アル壇上ニ置カルルモノノ如シ。
嗚呼、彼ノ女ノ罪ハ祖先ノ罪ニアラズ、彼ノ女ノ死ハ彼ノ女ノ罪ニアラズ――彼ノ女ヲ殺シタルハ余ナリ、駒井能登守ナリ。
余ハ惑乱ス」
[#ここで字下げ終わり]
 記号と、数量と、線と、画とで、書き充たされていたノートが、この頁から一変した感傷の文字で、しどろもどろに塗られていました。

         二十九

 お濠端《ほりばた》の柳の木に凭《もた》れた宇津木兵馬は、どのぐらいの間、何事を考えていたか自分でもわからないが、突然大きな声をして、
「おれは、もう駄目だ」
と叫びました。
 その声に驚かされた通行人が、たちどまって提灯《ちょうちん》をさしつけ、
「何でしょう」
「たしかお濠端で、人の声がしましたぜ」
「身投げではありますまいか」
 遠くから提灯をさしつけ、
「モシモシ」
 返事がありません。
「そこに誰かいるんですか」
 なお返事がないので、怖《おそ》る怖る近寄って来て、
「モシ、短気なことをなすっちゃいけませんぜ」
「馬鹿!」
 兵馬が、一喝《いっかつ》したので、その二人は、わっ! とひっくり返って逃げてしまいました。
「身投げと間違えられた」
 兵馬は苦笑いしながら四辺《あたり》を見廻すと、四辺は真暗で、たしかに自分は濠端に立って呻《うめ》いている。
「なるほど、この腑甲斐《ふがい》ない自分というものの持って行き場は、身投げあたりが相当だろう、腹を切るという代物《しろもの》ではない」
 自分で自分を嘲っているところへ、鍋焼うどん[#「うどん」に傍点]が来る。
「おい、うどん[#「うどん」に傍点]屋」
「はい、はい」
 兵馬は、うどん[#「うどん」に傍点]屋を呼び留めて、熱いうどんを二杯食べて、銭を抛《ほう》り出し、
「ここは、どこだ」
「へえ、ここはお濠端《ほりばた》でございます」
「お濠端はわかっているが、お濠端のどこだ」
「へえ、ワラ店《だな》の河岸《かし》でございます」
「ワラ店の河岸?」
「エエ、左様でございます、どうも有難うございました」
 うどん[#「うどん」に傍点]屋が逃げるように行ってしまったのは、何か兵馬の権幕におそれを抱いたものと見えます。
「ところで、今は何時《なんどき》だ」
 兵馬は、それを聞きはぐって、その濠端について、ずんずんと上手《かみて》へ歩き出しました。かなり歩いても濠端には相違ない。
「やい、気をつけやがれ」
 出合頭《であいがしら》に突当ろうとしたのは、やはり二人づれの酔どれ、どこぞの部屋の渡《わた》り仲間《ちゅうげん》と見える。よくない相手にとっつかまった兵馬は、
「馬鹿め」
 その利腕《ききうで》取って、やにわに濠の中へほうり込んで、さっと走り出しました。あとで、仲間どもが天地のひっくり返るほど喚《わめ》き出したのも聞捨てに――
 なお一目散《いちもくさん》に濠端を急いで行くと往来止め。
「ちぇッ」
 行き詰って、むしろ、この往来止めの制札を打砕いて、掘りっぱなしの溝《どぶ》の中を泳いで、溝鼠《どぶねずみ》のように向うへ這《は》い上ったら痛快だろう、と思っただけで、往来止めの制札の横の方に置き捨てられた大きな切石の一端に、腰を卸してしまう。いいあんばいに後ろは背をもたせるように出来ている柳の樹。兵馬は、それに凭《よ》りかかろうとすると、ヒヤリと頭を撫でるものがある。手をあげてさぐると、いやに生温《なまぬる》いものが指先にさわる。
「あッ」
 兵馬は手をはなして、よく見るとまさしく首くくりだ。
「ええい!」
 再び手を出して、そのブラ下がっている足に触れてみると、生温いと思ったのは最初の瞬間、冷えきって絶命している。
「ちぇッ」
 さきには自分が身投げと間違えられる、今は首くくりに頭を撫でられる、兵馬の腹はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]です。
 廻り道をして、やはり一方の濠端を歩む。折々、拍子木と按摩の笛が耳に入る。
「旦那、駕籠《かご》はいかが」
 とある柳の木の下、これは辻待ちの駕籠屋ですから、喫驚《びっくり》するには当りません。
「旦那、いかがです、大門《おおもん》までおともを致しやしょう、二朱やって下さい、二朱」
 それを、うるさい[#「うるさい」に傍点]と振切ろうとした兵馬が、考え直したと見えて立ちどまり、
「駕籠屋、駕籠屋」
「へえ」
「駕籠を持って来い」
「へえ、畏《かしこ》まりました」
 担《かつ》ぎ出した四つ手駕籠。拾い物をしたように、二人の駕籠屋は大喜び。兵馬は何と思ってか、その駕籠に飛び乗ると、駕籠屋は威勢よく走り出したが、その行先を知らない。行先を知らないで担ぐ奴も担ぐ奴、担がれる奴も担がれる奴。
 しかし、駕籠屋は、もういっぱし心得ているつもりらしい。
「駕籠屋、駕籠屋」
 暫くあって中から言葉をかけた兵馬。
「相棒、旦那がお呼びにならあ」
「何でございます、旦那」
「お前たちは、何方《どっち》へこの駕籠を持って行くつもりじゃ」
「冗談じゃございません、先刻《さっき》お約束を致しました通り」
「まだ約束はしていない」
「御冗談をおっしゃらないように。日本橋並みで大門まで二朱は大勉強でございますぜ、旦那」
「それはお前たちのひとりぎめだ、わしは甲州へ行きたいのだ」
「え?」
「どうじゃ、甲州までこの駕籠はやってもらえないか」
「い
前へ 次へ
全34ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング