江戸三界では融通が利《き》かなくなったということで、それがおのずからこの男を謹慎にし、多少、謹慎の味がわかってみると、遅蒔きながら、生涯を蒔き直そうかという気にもなってみ、寺僧に就いて、多少、禅学の要旨を味わってみたり、茶や、生花の手ずさみを試みてみたり、閑居しても、必ずしも不善を為さぬような習慣になっているのです。
 しかし、これとても、本心から左様に発心《ほっしん》して精進《しょうじん》しているわけではなく、事情しからしめた故にそうなったので、この事情が除かるるならば――たとえば面の傷が癒着《ゆちゃく》するとか、財政の融通が利いて来るとかいうことになれば、また逆転しないという限りはないが、今のところではその憂いはなく、それで、附近の旧知行所の人々は質朴で、殿様扱いに尊敬するものだから、満足はしていないながらも、無聊《ぶりょう》に堪えられないということはなく、どうかすると斯様な生活ぶりに、自然の興味をさえ見出すこともあるのです。
 今宵は月が佳《い》いからというので――大中寺とは背中合わせになっている大平山《おおひらやま》の隠居から招かれて、碁打ちに参りました。
 この隠居も大中寺へ見えて、主膳とは碁敵《ごがたき》になっているが、主膳の方がずっと強いながら、この辺としてはくっきょうの相手ですから隠居は、主膳の来訪を喜んで、眺めのよい高楼に盃盤《はいばん》を備えて待受け、
「これは講中の者から贈ってよこしました花遊《かゆう》と申す美酒でございます、美酒と自讃を致すのもいかがなものでございますが、ともかく、関東としては、ちょっと風味のある品と覚えました故、一献《いっこん》差上げたいと存じまする」
「折角ながら、拙者は酒を飲まないことに致しておる」
「それはそれは、何か御心願の筋でもあらせられまして」
「いや、別に心願というわけでもないが、酒では幾度も失敗をしでかした故に」
「それは残念でございます。しかし、少々ぐらいはお差支えがございますまい」
といって、隠居は手ずから神尾の前の盃に酒を注ぎました。
「せっかくながら……では、早速一戦を願おうか」
「今日こそは、先日の仇討《あだうち》を致さねばなりませぬ」
 二人共、酒盃は其方《そっち》のけにして、石を並べはじめました。
 局面が進んで行くと、二人はいよいよ熱中する。隠居は石を卸しながら、ちょいちょい酒盃を手にするが、最初から手を触れないでいた神尾、
「ここはぜひとも切らなければ」
と言って一石、その手が思わず盃にさわる。
 我知らず唇のところまで盃を持って来て、はじめて気がつき、
「あっ」
と苦い物でも噛んだように、下へさしおいて、
「ともかく、切った以上は繋《つな》いでおく」
 隠居は考え込んで、
「弱りましたな」
「これで局面が一変」
 神尾は喜んで、再びその手が無意識に盃の上へ下りる。
「さあ」
と隠居が、いたく考え込んでいる。得意になった神尾が、知らず識らず盃を唇のところへ持って来て、
「あっ」
 また熱い物でも触れたように、慌《あわ》てて下へ置く。
「そうなりますと、絶体絶命、劫《こう》に受けるより手がなくなりました。上手《うわて》に向っての劫は大損でございますが、仕方がありません」
 隠居は窮々《きゅうきゅう》として受身である。神尾は劫を仕掛けて、いよいよ有利と見える。もはや、充分に死命を制したつもりで得意になると、三たび、その手が盃に触れる。唇のところまで持って来て、
「いや、これは違った」
 苦々しい面《かお》をしていると、気がついた隠居が、
「これはこれは、御酒《ごしゅ》が冷えましたでございましょう、お熱いのを換えて差上げましょう」
 忙がしい中で手を打って女中を呼んで、燗《かん》の代りをいいつけて、
「では、これだけいただきましょう」
「それは相成らん」
「拙者はこっちの方を少しばかり」
「どう致しまして」
「ここなら頂けますか」
「なかなか以て」
「左様ならば、ホンの少々だけ」
「御免を蒙ります」
「これはこれは。あれも下さらない、これも下さらない。しからばホンの三目だけ」
「その三目をやっては全体が活《い》き返る。さあその次は」
「ごようしゃを願います。左様ならばこれだけ」
「以てのほか……しかしながら、これで拙者の方の劫種《こうだね》が尽きたわい、あれとこれと交換では割に合わぬ、じゃと申して、もうほかには種がない、こりゃ劫負けかな」
「そのくらいは負けていただかないと碁になりませぬ」
「さあ、これでまた局面が逆転した、悪かったな」
 神尾は当惑して暫く考えていると、またしてもその手が盃に触れる。
「これでホッと一息致しました」
 隠居はホッと息をついて盃を取り、飲みぶり面白く乾《ほ》すと、
「さあ、難石《なんせき》だ」
といって神尾もうっかり唇まで持って行った酒を、チビリと一口飲んでしまって、
「あ」
 取返しのつかないというような面。
「こりゃ、のんで[#「のんで」に傍点]おくか」
「え、どうぞ」
 神尾は一石伸ばすと共に、無心で一口つけた盃を、今度は自暴《やけ》の気味でグッと飲み乾してしまう。
「さあ、どうぞお引き下さいませ」
 隠居は碁石とお銚子とを、ちゃんぽんに扱う。
「どうなるものか」
 神尾が荒っぽく一石を打ち卸して、その手がまた有心無心《うしんむしん》に盃に触れる。
「どうぞ、お重ねあそばして、さあ」
 隠居はお銚子を打って、碁石をすすめるようなもてなし。
「いよいよ悪かったか」
 神尾はついに三たび、盃を飲み乾した時、陣形ことごとく崩れてしまって、もはや収拾の余地がない。勝ち誇った隠居は、その傍らいい気になって神尾に酒を酌《つ》ぐ。業腹《ごうはら》になった神尾は、
「投げだ」
 碁石を投げ出して、焦々《いらいら》しく酒盃を取り上げる。
「ハハハハハ、怪我でございます、大きな拾い物を致しました」
 幸いにして神尾主膳は、この時まだ全く自制を失ったというのではありません。謹慎の癖がついてみると、破戒の咎《とが》がいくらか身を責めて、ある程度で盃をくいとめたのは大出来です。
 改めて一石――そこで主膳は手水《ちょうず》に出た時、廊下であわただしく一間へ駈け込んだ人影を見て、小首を傾《かし》げました。
 別に女中が追いかけるように手燭《てしょく》を持ち出したけれど、もう遅い。
 主膳が、酔眼にもしか[#「しか」に傍点]と認めたその人影は女。それも江戸の町家、或いは大名の奥などで見るような娘ぶり。
 この家に娘はないと聞いていた。してみれば今のは?
 主膳はその疑問を解き終らずに席へ戻って、改めて盤に向う。
 数番の勝負終って後、主膳もしかるべきところで切り上げて帰ろうとする。
 そこで隠居は、秘蔵の刀剣や書画骨董を取り出して見せる。
 やがて主膳は隠居に辞儀をのべ、思わず酩酊《めいてい》した申しわけをすると、
「お口に叶いましたならば、別に一樽《いっそん》を献上|仕《つかまつ》る」
 隠居は別に美酒一樽を仕込んで僕《しもべ》に持たせ、主膳を送らせることにしたのは出来過ぎです。
 断わっても聞かれず、月はありながら提灯を持った僕に、別酒一樽を持たせて大平山神社の社《やしろ》を、左へ取って、石積みの鳥居を潜《くぐ》る時分、酔いが廻って主膳は陶然《とうぜん》たる心持になりました。
 ちょうど、向うから無提灯で来た旅の者――月夜ですから無提灯が当り前ですけれども、それにしても旅慣れた姿、この間道をよく登って来る近在の百姓とも思われません。
 すれ違った時に先方の合羽《かっぱ》が、
「モシ、失礼でございますが、神尾の殿様ではいらっしゃいませんか」
「なに、そちは誰じゃ」
 そこで神尾が踏みとどまると、旅の者は傍へよってきて、小腰をかがめ、
「百蔵でございます」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]か」
 神尾主膳が苦々《にがにが》しげに立っていると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はなれなれしく、
「これはよいところでお目にかかりました、実は、殿様がこちらにおいでなさることを承って参りましたのですが、ともかく、大平山へ参詣致しましてから、改めてお伺い致そうとこう考えていたところなんでございます、ここでお目にかかったのは何より。そうして殿様は、これからどちらへお越しになろうというんでございますか」
「いや戻り道だ、大平神社の隠居殿を訪ねて、これから大中寺へ戻ろうとするところじゃ」
「左様でございますか」
「百蔵、お前はまた何しに、こんなところへ来たのだ」
「少々ばかり信心の筋がございましてね。それともう一つは、ぜひお久しぶりで殿様の御機嫌を伺いたいと、こう思って参りましたんでございます」
「それは有難いような、迷惑なような次第だ」
「いかがでしょう、これから殿様のお伴《とも》を願いましては」
「左様……」
 主膳は、ちょっと考えていたが、隠居の僕《しもべ》を顧みて、
「これこれ若い衆、そちは、もうよいから帰らっしゃい、ここから帰って、隠居殿によろしく申してくれ」
「いやナニ、せっかくでございますから、あちらまでおともをさせていただきましょう」
「若い衆さん……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、隠居のしもべを見ていいました。
「お帰んなすって下さい、私が殿様のおともを致して、無事にお送り申し上げて参りますから、御安心なさるように……おっと、それはおみやげでございますか、がんりき[#「がんりき」に傍点]が頂戴して持って参りましょう」
といって、僕《しもべ》の手にしていた美酒一樽を、早くもがんりき[#「がんりき」に傍点]が受取ってしまいました。
 隠居の僕はぜひなくお暇をいただいたわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が代っておみやげの美酒一樽をぶらさげ、提灯は断わってしまって、二人が相携えて、大平山を大中寺の方へ、山間《やまあい》の小径《こみち》を伝うて下ります。
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、そちはどこで拙者の隠れ家を聞いて来た」
「ええ、福村様から承って参りました」
「福村から? 福村はどうしている」
「相変らず……お盛んな御様子でございました」
「そうか」
「時に神尾の殿様、あなた様はいったい、もうこの土地で、一生を埋《うず》めておしまいになるつもりでございますか、江戸の方には未練をお残しなさるようなことはございませんのですか」
「そうさなあ、住めば都の風といって、このごろのように行い澄ました心持になってみると、こういった生涯にもまた相当の味があるものでな」
「ははあ、では、その大中寺とやらで、御修行をなすっていらっしゃるんでございますね、御修行が積んだら、ゆくゆくは一カ寺の御住職にでもおなりなさるつもりで……いや、頼もしいことでございます」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、わざとらしく一樽の美酒をブラブラさせる。
「何をいっているのだ」
 神尾も久しぶりで相当の話敵《はなしがたき》が出来たような気分で、がんりき[#「がんりき」に傍点]の相手になって、ブラブラと小径をたどる。
「そりやずいぶんと結構でございますなあ、殿様がそういう結構なお心になったとは露知らず、世間にはずいぶんふざけた奴が多いので、いやになっちゃいますなあ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、そちは妙ないい廻しを致すではないか」
「全く腹が立っちまいますねえ、せっかく、発心《ほっしん》なすって功徳《くどく》を積もうとなさる殊勝なお心がけを、はたからぶちこわして行く奴が多いんで、情けなくなっちまう」
「何がどうしたのだ、誰か修行の妨げでもしたというのか」
「まあ、早い話が……この酒樽なんぞも、そのロクでなしの一人、ではない一箇《ひとつ》のうちでございましょう、こいつが」
といってがんりき[#「がんりき」に傍点]は、その提げていた酒樽を、邪慳《じゃけん》にブラブラさせる。
「その酒樽が……何か悪事でも働いたというのか」
「悪事どころじゃございません、第一、御修行中の殿様を、今、お見かけ申せば、どうやらいい心持にして上げたのも、こいつの仕業《しわざ
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