ればこの武士たるものは、極々上の達人でなければならない。こういう芸当は、覚え以上の腕がなければできない芸当である。さればこそ米友に講和を申込んで、その手腕を閑却することができなかったのも道理がある。しかし米友は、前途の急を説いてせっかくの好意を辞退したが、件《くだん》の武士たるものは、では近いうちぜひ遊びに来給え、住所姓名は、神田お玉ヶ池のなにがし[#「なにがし」に傍点]とたずねてみろと教えてくれました。
二十四
浅草御門を両国広小路、両国橋を渡り終って、ほどなく相生町の老女の屋敷に着いた宇治山田の米友。ホッと息をついて裏門の潜《くぐ》り戸《ど》を押すと、迎えに出でた真黒な豪犬《おおいぬ》。
「おお、ムクか、久しぶりだ、久しぶりだ」
提灯《ちょうちん》を持ち換えて、ムク犬の首を撫《な》でてやる宇治山田の米友。
「友さん、よく来てくれましたね」
そこへ走り出でたお松。米友を案内して一間へ通すお松の眼には涙がいっぱいです。この気丈な娘にしてこの悲しみ、米友もなんとなしに情けない心に打たれて悄《しお》れました。
「友さん、お君さんがもういけないのですよ」
「ど、どうして?」
米友は胸を圧迫されるような苦しさで、お松の面《おもて》をじっと見つめる。
「赤ちゃんが生れました、赤ちゃんの方は丈夫ですけれども、お君さんがいけないのです、で、自分にそれがわかっているんでしょう、ぜひ、友さんに会わせて下さいって、そのことばかり言いつづけなんですよ、ほんとによく来て下さいました」
「うむ」
「けれども、友さん、そういうわけですからね、いつものようにポンポンいっちゃいけませんよ、たとい友さんの気象で、面白くないことがあるとしても、友さんみたように、あんなに強くいわれるとね、気の弱い人はのぼせてしまいますから、やさしく口を利いてやって下さいね」
「俺《おい》らだって、好んで悪口をいうわけじゃねえんだ」
「そうでしょうけれども、なるべくやさしくいってくださいよ」
「ムクがかわいそうだな」
といって米友は、障子を開いて縁の外を見ますと、お松が、
「ええ、ムクもこのごろは、しおれきっています、御飯をやっても食べやしません」
米友は立って縁の上に出で、そこで口笛を吹きますと、
「友さん、夜になって口笛を吹くものではありませんよ、悪魔がその音を聞いて尋ねて来るそうです」
しかしこの時は、悪魔は来ないで、ムク犬がやって来ました。
お松が立って行ったあとで、米友は、
「ムク」
うるみ[#「うるみ」に傍点]きった大きな眼と、真黒い中で、真黒い尾を振る姿を見て、
「ムク、手前は強い犬だったなあ、昔もそうだったから今もそうだろうが、強い犬になるにゃあ、飯をうんと食わなくちゃ駄目だぞ」
「…………」
「飯を食わなけりゃあ痩《や》せちまあな、痩せちまっちゃ強い犬にはなれねえぞ、しっかりしろよ」
身を屈めた米友は、手を伸べてムク犬の首から咽喉《のど》を撫でてやり、
「宇治山田にいる時はなあ、手前がほんとうに怒って吠えると、街道を通る牛や馬まで慄《ふる》え上って、足がすく[#「すく」に傍点]んじまったものだ。こっちへ来ても、おそらく手前ほどの犬は無かろう。たとい、おいらが附いていなくたって、お松さんという人が附いている、お松さんはほんとうに親切な人なんだから、手前はよくお松さんのいうことを聞いて、飯を食わなくちゃいけねえぞ」
「…………」
「意久地《いくじ》なしめ、痩せてやがら。ホントに手前はいつまでも強い犬でいねえと、おいら[#「おいら」に傍点]が承知しねえぞ。遠吠え専門の痩犬は何万匹あろうとも、ほんとうに強い犬というのを殺すのは惜しいなあ、手前もちっとは自分の身が惜しいということを知れ」
米友の声がうる[#「うる」に傍点]んできた時、お松が戻って来て、
「友さん、それでは、どうかこっちへ来て下さい」
見事なその一間、絹紬《けんちゅう》の夜具に包まれて、手厚い看病を受けているお君の身は、体面においてはさのみ不幸なものとはいわれません。
米友が来たと聞いて、その美しい、衰えた、淋《さび》しい面《おもて》に、このごろ絶えて見たことのない晴々した色が浮びました。
「お君さん、友さんが来ましたよ」
「どうも有難う」
力のない身体《からだ》を向き直すつもりで、鉢巻をした面《かお》だけをこちらへ向けると、米友は無言のまま、そこへ坐り込んでいます。
「友さん、よく来てくれましたね」
「うむ」
「わたしはね、頭の方は癒《なお》りましたけれど、身体はもう駄目なのよ」
「…………」
その時に、お松が米友に代っていいました、
「そんなことはありませんよ、産後ですもの誰だって……」
「いいえ……」
お松も信じては力をつけられない。お君も気休めの言葉を、気休めとして聞くほどに自分を知っている。
「ですから友さん、わたしはお前によく話をしたり、頼んだりしておきたいと思っているの……」
「うむ」
「友さん、お前はわたしを憎んでいるばかりでなく、駒井の殿様をもいつまでも憎んでおいでなのが、わたしは残念でたまらない」
「それは昔のことだ、今じゃあそんなことまで考えちゃあいねえよ」
「嘘です、友さんは憎みはじめたら、良い人でも、悪い人でも、終いまで憎んでしまうのですから、わたしは悲しい。ですけれども今はそんな話はよしましょう、間《あい》の山《やま》にいた時のお友達の昔に返って、友さんにわたしはお頼みしておきたいことがあるのよ……」
お君は、やっとこれだけのことをいうと、すっかり疲れてしまって、咽喉《のど》もかわくし、唇の色まで変っています。
「お君さん、お薬を上げましょうか」
「どうも済みません」
お松の手で咽喉をしめしてもらったお君は、再び言葉をつぐ元気がないと見えて、目をつぶったままで微かに呼吸《いき》を引いています。
二人も、その安静を妨げない方がよいと思って、黙って、お君の寝顔をながめているだけです。
「友さん……」
暫くして呼んだお君の声は、夢の中から出たようで、その眼は開いているのではありません。
「お君さん……」
と米友の代りにお松が返事をしたけれど、お君の呼んだのは囈言《うわごと》でありました。
二人は、なおその寝顔をじっと見ていると、お君の額にありありと、苦痛の色が現われて、
「あ!」
「お君さん」
お松がその背中へ手を当てると、
「皆さん、ムクを大切《だいじ》にして下さい、お松様、あのことをお頼み致しますよ」
「何をいっていらっしゃるの、お君さん、しっかりしなくてはいけません」
「友さん……それでは、わたしを間の山へ連れて行って下さい……駒井の殿様へよろしく申し上げて、さあいっしょに帰りましょう……鳥は古巣へ帰れども、往きて還らぬ死出の旅……」
この時、お君の面《おもて》からサッと人間の生色が流れ去って、蝋のような冷たいものが、そのあとを埋めてしまいました。
「誰か来て下さい……」
お松が叫んだ時、抱えていたお君の頭が、重くお松の胸に落ちかかります。
「死、死んだのかい!」
宇治山田の米友が、矢庭《やにわ》に飛び上ったのもそれと同時刻。
かわいそうに、お君は死んでしまいました。
まもなく、この邸の裏門から驀然《まっしぐら》に走り出だした宇治山田の米友は、相生町を真一文字に、両国橋の袂《たもと》まで飛んで来て、
「これこれ、どこへ行く」
橋際の辻番の六尺棒で行手を支えられた時、
「間の山へ行くんだ」
「何だ……」
「間の山……じゃなかった、小石川へ帰るんだ」
「小石川のどこへ」
「この提灯《ちょうちん》を見ねえな」
突き出してみたけれども、あいにくのことに、その提灯に火が入っていません。
「ちぇッ」
杖槍と、提灯とを、ひっかかえて来たけれども、この提灯へ火を入れることを忘れていた。
「どこから来た」
辻番は穏かならぬ面色《かおいろ》で咎《とが》めると、米友は舌打ちをしながら、
「相生町の御老女の屋敷から来て、小石川の伝通院の学寮へ帰るんだ、火を貸しておくんなさい」
米友は火の入っていない提灯を、辻番所まで持ち込むと、
「それ」
ちょっと億劫《おっくう》がった辻番が、投げ出すように火打道具を貸してくれる。
「カチカチ」
「ちぇッ」
「カチカチ」
燧《ひうち》を打つ手先が戦《わなな》いて、ほくち[#「ほくち」に傍点]を取落してはひろい上げ、ようやく附木にうつすとパッと消える。
「ちぇッ」
焦《じ》れ立った米友の挙動を見ていた辻番が、
「それでは燧金《ひうちがね》がさかさだ」
「ええいッ」
やっとのことで火は提灯へ入ったが、手先が、やはりわなわなとふるえている。
「なるほど」
辻番は提灯に現われた「伝通院学寮」の文字をありありと読んで、やや得心が行ったように、
「何を慌《あわ》てているのだ」
米友の挙動には、不審が晴れない。
「何でもねえんだ、どうも有難う」
そうして走り出すと、
「おい、待たっしゃい」
呼び留めた辻番、振返った米友。
「何か包を落したぞ」
「うむ、そうだ」
辻番が拾ってくれた帛紗《ふくさ》づつみを、手早く受取って懐ろへ捻《ね》じ込む。
「気をつけて歩かっしゃい」
辻番も、米友の挙動を合点《がてん》ゆかないとは思ったが、出て来たところが老女の屋敷で、行先が伝通院ということに諒解を持ったものと見えて、跡を見送っただけである。一目散に両国橋の上を走り渡った宇治山田の米友が、
「往きて還らぬ死出の旅」
そこで、ピッタリと足をとどめて、
「さあ、わからなくなった、前と後ろがわからなくなっちまった、右と左もわからなくなっちまった」
宇治山田の米友は、両国橋の真ン中の欄干《てすり》の前に突ッ立って、
「何が何だか、おいらの頭じゃわかりきれなくなった。来世《らいせ》というのはいったいどこにあるんだ。ナニ、魂だけが来世へ行く? さあ誰がその魂を見た、その魂が来世とやらへ行って何をしているんだ。ナニ、この世で苦労したものが来世で楽をする? 誰がそれを見て来たんだ、魂が来世へ行って何を働いているか、見届けて来た人があるなら教えてくれ、後生《ごしょう》だから……今まで生きてたものが死んじまった、ただそれだけか。花は散りても春は咲く、鳥は古巣へ帰れども、往きて還らぬ死出の旅……今、それがひとごとじゃねえんだぞ、ほんとうに死んだ奴が一人あるんだぞ。ナニ、誰か殺したんだろうって? 冗談じゃねえや……ナニ、米友、お前が苛《いじ》め殺したんだろうって? ばかにするない。そうでなければ駒井能登守の奴が殺したんだろうって? 何をいってやがるんだい、何が何だかこの頭じゃわからねえや」
宇治山田の米友は、狂気の如く同じところを飛び上っています。
二十五
栃木の大中寺に逼塞《ひっそく》の神尾主膳は、このごろは昔と打って変った謹慎の体《てい》であります。
謹慎でなければならぬように、すべての都合が運んでいるところへ自分もまた、つくづくと半生の非を悟った。これからの生涯を蒔《ま》き直そうかと考えているらしい。
この男は、悪友と酒癖《しゅへき》さえなければ、転回の余地がないという限りはない。今、斯様《かよう》にかけ離れたところに来ていれば、悪友の押しかける憂いもなし、酒は自ら悔いているくらいだから、断じて盃を手に取らぬという堅い決心をきめているのです。それに、悪友と酒癖とからこの人を遠ざけた一つの大きな理由は、例のお喋り坊主の弁信を、巣鴨の化物屋敷で井戸の中へ投げ込もうとした時に、釣瓶《つるべ》が刎《は》ねて受けた傷、眉間の真ン中に牡丹餅大の肉を殺《そ》ぎ取られて、生れもつかぬ形相《ぎょうそう》となってしまった。それ以来、世間へこの面《かお》を曝《さら》すことが業腹《ごうはら》で、思いきって旧領地の縁をたどり、ここへ引込んでしまったのだから、今の謹慎も実は、その面部の大傷がさせた業《わざ》と言うべきものです。それと、もう一つは、財政がもはや全く枯渇して、化物屋敷の類焼以来は、
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