「せせら」に傍点]笑う若いものもあって申します。
「それじゃ何かえ、せっかくここまで進んで来た江戸の文化を、昔の田舎気分に引き戻せとおっしゃるのかい。権現様だってなにも、人間を窮屈にしようと思って江戸をお開きになったわけじゃあありますまい。そりゃ戦争の時分は玄米飯をかじるもよかろうが、平常《ふだん》、玄米ばかりかじってもいられまいじゃないか。第一権現様の時代と今日とは時代が違いますぜ、今時《いまどき》、江戸に生れて清元の一つも唸《うな》れねえようなのは人間とは言われませんや。京都へ行って見さっし、長州だといったところで、薩摩だといったところで、江戸のさむらい[#「さむらい」に傍点]ほど京女に持てるのはありゃしませんぜ、京女に鼠なきをさせるのは、東男《あずまおとこ》に限ったものでゲス」
それとは趣を異《こと》にした本所の相生町の老女の家では、南条力が壮士を相手にして、
「当時、江戸幕下に人物がないとは言えないのだ、小栗上野《おぐりこうずけ》がある、勝安房《かつあわ》がある、永井|玄蕃《げんば》も、水野|痴雲《ちうん》も、向山黄村《むこうやまこうそん》、川路聖謨《かわじせいぼ》、その他誰々、当時天下の人物としても恥かしい人物ではないが……なにぶん大廈《たいか》の覆《くつが》える時じゃ、徒《いたず》らに近藤勇、土方歳三輩の蛮勇をして名を成さしむるに至ったのも、天運のめぐる時でぜひもない……それにつけても我々は、亡ぶべきものを亡ぼすと共に、生れ出づべき生命を、永久に意義あるものとしなければならない」
二十
さてまた、長者町の道庵先生の屋敷の門前では、子供たちがしきりに砂いじり[#「いじり」に傍点]をして遊んでいます。
「粂《くめ》ちゃん、そんなことをしてもツマらないから、もっと高級な芸術をこしらえて遊ぼうや」
「ああ、そうしよう、みんなおいでよ、良ちゃんもおいでよ、広ちゃんも。みんなして高級な芸術をこしらえて遊ぶんだから」
「ああ、あたいも入れておくれ」
「あんまり大勢呼ぶのはおよし」
「高級な芸術ってどんなの」
「今、あたいたちがこしらえるから、こしらえたら上手《じょうず》でも下手《へた》でもいいから、みんなして手を叩いて賞《ほ》めるのよ」
「それが高級な芸術なの?」
「ああ、君たちも少し手伝っておくれよ」
「あたいもね」
子供たちが集まって、しきりに砂を集めて塔をこしらえているところへ、ヒョッコリと首を出したのが主人の道庵先生です。先生は子供たちの挙動をしきりにながめていたが、(無論、先生は酔っぱらっているのです)やがて突然、口を出して、
「みんな、そこで何をこしらえているんだい」
「何でもいいから黙って見ておいでよ」
「教えたっていいじゃないか」
涎《よだれ》を垂らさんばかりにして、子供の砂いじりをながめていた道庵を、子供たちは相手にしないから、道庵がまた首を突込んで、
「何をこしらえてるんだよう」
「だまって見ておいでってば」
「わかってらあ、胃袋をこしらえるんだろう」
「ははあだ、胃袋だってやがら。先生はお医者だもんだから、胃袋だなんていってやがら。胃袋なんかこしらえるんじゃねえやい、高級な芸術をこしらえてるんだい」
「高級な芸術?」
「そうだよ」
「それが高級な芸術てのかい」
道庵先生が、やかましくいうもんだから、子供がうるさがって、
「先生、あっちへ行っておいでよ」
「それでも、おれが見ると胃袋にしきゃ見えねえ」
「先生には、芸術がわからねえんだよ」
「ああ、芸術がわからないんだから、あっちへ行っておいでよ」
「だってお前たち、胃袋をこしらえて高級な芸術だったって仕方がないよ、それ胃袋じゃないか、胃袋の形をしているじゃないか」
といいながら、酔っぱらっている道庵先生は、子供たちが一生懸命でこしらえた砂の塔を、ひょい[#「ひょい」に傍点]と突っつくと、たちまちその塔がひっくり返ってしまったから、子供がムキになって怒り出しました。これは道庵先生、少々おとなげ[#「おとなげ」に傍点]ないことで、子供たちの怒り出したのにも無理のないところがあります。
「あ、先生が高級な芸術をひっくり返してしまった、悪い奴!」
「みんなして、先生を叩いてやろうよ」
子供たちが総立ちになって、道庵先生をとりまいて、
「ペチャ、ペチャ、ペチャ、ペチャ」
盛んに叩き立てましたから、道庵先生は羽織を頭からかぶって、
「こいつはかなわねえ」
人を殺すことにかけては、当時、道庵の右に出でるものはあるめえ、新撰組の近藤勇といえどもおれには敵《かな》わねえ、道庵の匙《さじ》にかかって命を落したものが二千人からあると、日頃勇気|凜々《りんりん》たる道庵先生も、この子供たちに逢っては一たまりもなく、ほうほうの体《てい》で門内へ逃げ込んでしまうと、やや離れてお手玉をとって遊んでいた女の子供たちまでが飛んで来て、
「先生を叩いてやりましょうよ」
「お土産《みやげ》三つに凧《たこ》三つ」
そこで、道庵先生をまたペチャ、ペチャと叩きました。
子供に叩かれて、ほうほうの体《てい》で家の中へ逃げ込んだ道庵先生は、座敷へ入ると、ケロリとして道中記をながめています。
道庵先生にとっては、今がその小康時代ともいうべきものでしょう。ナゼならば、先生の唯一の好敵手たる隣りの鰡八御殿《ぼらはちごてん》の主人公が、洋行から戻って来た暁には、またぞろ百五十万両もかけて、大盤振舞《おおばんぶるまい》をするにきまっていますから、それを見せつけられた日には、先生もまた相当の手段方法を講じなければならないはずですから。
ところがその鰡八大尽は洋行の留守中であり、江戸の武家は長州征伐というわけで、風雲の気はおのずから西に走《は》せてしまったようなあんばい[#「あんばい」に傍点]だから、先生もいささか張合抜けの体《てい》です。
そこで先生は、この余った力と機会とを利用して、五十日間の予定で、名古屋から京大阪を遊覧して来ようとの案を立てました。
先生が今度の旅程のうちに、特に名古屋を加えたというのは、先生独得の見識の存するところで、その意見を聞いてみると、先輩の弥次郎兵衛と喜多八が、東海道を旅行中に、名古屋を除外したというのが不平なのだ。
「べらぼうめ、太閤秀吉の生れた国と、金のしゃちほこを見落して、東海道|膝栗毛《ひざくりげ》もすさまじいや、尾張名古屋は城で持つと、雲助までも唄っていらあな、宮重《みやしげ》大根がどのくらい甘《うめ》えか、尾州味噌がどのくらいからいか、それを噛みわけてみねえことにゃ、東海道の神様に申しわけがねえ」
特に東海道の神様という神様があろうとも思われないが、これが先生の名古屋へ立寄る一つの理由となっているのであります。しかし、弥次郎兵衛と喜多八が名古屋を除外したからといって、故意にやったわけではなく、宮の宿から一番船で、七里の渡しを渡って、伊勢の桑名へ上陸の普通の順路を取ったまでだから、それをいまさらいい立てるのは、少し酷《こく》だと思われます。
それよりもこの際、京、上方の空気というものは、道庵先生などの近寄るべき空気ではないのですが、この先生のことだから、それをいえば、例のおれの匙にかかって、命を落したものが二千人からあるを持ち出して、始末におえ[#「おえ」に傍点]ないから、まあほうっておいて、気ままにさせるよりほかはないのです。
「道六や」
そこで代診の道六というのを膝近く呼び寄せて、留守中|万端《ばんたん》の心得をいって聞かせ、今や、その旅行の日程に苦心中であるが、東海道筋は先年、伊勢参りの時に往復しているから、今度はひとつ趣を変えて、甲州街道を取ろうか、或いは木曾街道を選ぼうかと、道中記と首ッ引きの結果、距離と日数に多少の費《つい》えはあるが、変化の面白味からいって、木曾街道を取り、途中から名古屋へ廻るということに決定しました。
それがきまると、次の問題は道連れの一件であります。これにはさすがの先生も、ハタと当惑しました。
一人旅はいけない。そうかといって、野幇間《のだいこ》の仙公には懲《こ》りている。薬籠持《やくろうもち》の国公は律義《りちぎ》なだけで気が利《き》かず、子分のデモ倉あたりは、気が早くって腰が弱いからいけない。知己友人に当りをつけてみたところで、オイソレと同行に加わるような閑人《ひまじん》は見つからない。旅の話相手にもなり、相当に気も利いて、慾をいえばこの際のことだから、武芸の片端《かたはし》を心得て、用心棒を兼ねてくれるような男でもあれば申し分ないが、そうは問屋で卸さない。さすがの道庵先生も、この人選にはことごとく頭を痛めているところへ、
「先生、お客様でございます」
「誰だ」
「玄関へ米友さんとおっしゃる方がおいでになりました」
「ナニ、米友が来た! 鎌倉の右大将米友公の御入り! 占《し》めた」
この際、天来の福音に打たれたように、道庵先生が躍り上りました。
二十一
甲州上野原の報福寺、これを月見寺ととなえるのは、月を見るの趣が変っているからです。
上野原の土地そのものは、盆地ともいえないし、高原ともいいにくい山間《やまあい》の迫ったところに、おのずから小規模のハイランドを形づくっているだけに、そこではまた何ともいえない荒涼たる月の光を見ることがあるのであります。
今宵、寺の縁側へ出て見ると、周囲をめぐる山巒《さんらん》、前面を圧する道志脈の右へ寄ったところに、富士が半身を現わしている。月はそれより左、青根の山の上へ高く鏡をかけているのであります。
火燈口《かとうぐち》の下に座を構えた盲法師《めくらほうし》の弁信は、物を言いはじめました。
「今晩はまた大へん月がよろしいそうでございますね。月が澄みわたりましても、私共には闇夜と同じことでございます。明月や座頭《ざとう》の妻の泣く夜かな、と古《いにし》えの人が咏《よ》みましたそうでございますが、人様の世にこそ月、雪、花の差別はあれ、私共にとりましては、この世が一味平等の無明《むみょう》の世界なのでございます。無明がそもそも十二因縁の起りだとか承ったことがございます。いつの世に長き眠りの夢さめて、驚くことのあらんとすらん、と西行法師が歌に咏みましたということをも、承っておりますのでございます。悲しいことに皆様はいつかこの無明長夜《むみょうちょうや》の夢からお醒《さ》めになる時がありましても、私共にはこの生涯においては、そのことがあるまいと思われますのでございます。夢に始まって夢に終るの生涯が、この上もなく悲しうございますので、西行法師が、驚くことのあらんとすらんとお咏《よ》みになった心を承《う》けて、数ならぬ私共もまた、何物にか驚かされたいと常に念じている次第でございます。けれども、浅ましいことに、何物も一つとして、この私の悲しい心の底を驚かせてくれるものがございません。泣ける時に泣けない人、笑える時に笑えない人、驚く時に驚けない人は、恵まれない人でございます……衆生《しゅじょう》病むが故に我も病む、と維摩居士《ゆいまこじ》も仰せになりました。生々《しょうじょう》の父母、世々の兄弟のうち、一人を残さば我れ成仏《じょうぶつ》せじというのが、菩薩の御誓いだと承りました。大慈悲の海の一滴の水が、私共のこの胸に留まりまするならば、たとえ私のこの肉の眼から一切の光が奪われまして、この世の空にかかる月は姿を見せずとも、本有心蓮《ほんぬしんれん》の月の光というものは、ゆたかに私共の心のうちに恵まれるものに相違ございませんが、何を申すも無明長夜の間にさまようて、他生曠劫《たしょうこうごう》の波に流転《るてん》する捨小舟《すておぶね》にひとしき身でございます、たどり来《きた》ったところも無明の闇、行き行かんとするところも無明の闇……ああ、どなたが私をこの長夜の眠りから驚かして下さいます……昨日も私はこの裏の山へ入って行きますと、山鳥の声がしきりに耳に入りました。目は見えませんでも、物の音は耳に入るのでございます。その
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