ん》がゆきません。しかし、店頭を離れてから、福村が、
「ともかく珍しい、ぜひ遊びにやって来給え――ええと、拙者のところは小石川の茗荷谷、切支丹屋敷に近いところで、いやに傾《かし》いだ長屋門を目安に置いてたずねれば直ぐ知れる。君のお師匠様も一緒にいるよ」
「え、お師匠様が?」
 お松はギョッとしました。

 やがて夕方になると福村は、しばしば標榜《ひょうぼう》していた通り、茗荷谷の切支丹屋敷に近い長屋門のイヤに傾いだ一方に、福村の名を打ってある、己《おの》れの屋敷へ戻って来ました。
 帰って見ると、お絹は火鉢にもたれながら、しきりに絵本に読み耽っているところであります。丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った、いかにも色っぽい後家さんといった風情《ふぜい》。
「やれやれくたびれた」
 その前へ無遠慮に胡坐《あぐら》をかいた福村。
「お帰りなさい」
 お絹は絵本を畳の上へ伏せて、乳色をした頬に、火鉢のかげんでぼーっと紅味《あかみ》のさした面《おもて》を向けて、にっこり[#「にっこり」に傍点]と笑う。
「おみやげ」
「なあに?」
 福村は懐ろからふくさ[#「ふくさ」に傍点]包を取り出して、
「通油町の鶴屋で、それ御所望の六歌仙、次に京橋へ廻ってわざわざ求めて来た仙女香」
「まあ嬉しい」
「まだあるよ……黒油の美玄香」
「それがいけない、いつも落ちが悪いから」
「あんまりいまいましいから、ついこんなものを求めて来る気になったのさ」
「何が、そんなにいまいましいの」
「いつになったら浮気がやむのか、気が揉めてたまらないから、せめてこんなものでも見せつけたら、少しは身にこたえるかと思って買って来た」
「かわいそうに」
「ちぇッ、いやになっちまうなあ」
 福村は、じれったい様子をして見せる。
 こうして見ると二人は、まるっきり夫婦気取りです。先代の神尾主膳に可愛がられて妾《めかけ》となり、今の神尾主膳の御機嫌をとり、そのほかに肌合いの面白そうな男と見れば、相手を嫌わない素振《そぶり》を見せる女だから、時の拍子で、もうこの男とも出来合ってしまったのか知ら。そうでなければ、何かに利用するつもりで、いいかげんに綾なしているのかも知れない。
「どうも有難う、これだけはこっちへいただいておきます、これはそっちへ」
といってお絹は、錦絵と仙女香とを受取って、美玄香だけを、わざと福村の方へ押しつけると、福村は、
「そんなものはいりません、早く飯《まま》が食べたいのです」
「いま、食べさせて上げるから、おとなしくしておいで」
「あい、さむらい[#「さむらい」に傍点]の子というものは、腹が減ってもひもじうない……それよ、今日はまた珍しい人に、二人までぶっつかって来ましたよ」
「珍しい人……誰?」
「一人は両国の女軽業の太夫元のお角さん……」
「いやな奴」
 お絹は心からお角を好いていない。お角の方も御同様でしょう。
「そのうち、日光へ参詣を兼ねて、一緒に大中寺《だいちゅうじ》の御大《おんたい》をたずねる約束をして来たから、近いうちここへやって来ると思う、やって来ましたら、どうぞお手柔らかに」
「知らない」
 お絹が横を向くと、福村は改めて、
「御機嫌を直して下さい、もう一人は、決してあなたの嫌いな人ではありません、あのあなたの娘分のお松どのに逢って来ましたよ」
「お松に、どこで?」
「通油町の鶴屋で」
「あの子はこっちへ来ていたのか知ら。来ていたんなら、わたしのところへ面《かお》を出しそうなもの。薄情な娘《こ》。何をしていました」
「お屋敷奉公なんだろうが、そのお屋敷というのが……」
 そこで福村が邂逅《かいこう》の顛末《てんまつ》と、五七の桐の疑点とを物語ると、聞いていたお絹の面に、安からぬ色が浮びます。
 二人がお取膳で御飯を食べてしまってから、福村は、
「御大もこっちへ、出て来たいには来たいだろうがな」
といいますと、お絹が、
「出て来たって仕方がありませんよ」
「かわいそうに、そんな薄情なことを言うもんじゃない、当人は島流し同様な境遇にいるのだから、あの気象ではたまるまい」
「なあーに、向うで、我儘《わがまま》いっぱいにしているでしょう」
「そうはいくまいテ、誰といって親身《しんみ》になって侍《かしず》くものはあるまいし」
「いいえ、旧領地の人たちが、有難がって大騒ぎしているということです」
「だって、旧領地の人じゃあ仕方がない、誰かこっちから行ってやりたい親切な人はないかなあ」
「そりゃあるでしょう」
「あるならば、遠慮なく行っておやりなさい」
「知らない……」
 お絹は横を向いて、絵本を取り上げてしまいました。
「怒ったのかね」
 福村は御機嫌をとると、お絹はやっぱり横を向いたまま。
「お気にさわったら御免下さいよ」
 それでもお絹はつん[#「つん」に傍点]として、絵本に見入っている。そこで福村は、
「お気を直して下さいよ」
 それでもお絹は、つん[#「つん」に傍点]として口を利こうとはしません。
 その時、急に次の間から、はした[#「はした」に傍点]女《め》の声で、
「あの――出羽様のお屋敷からお使の衆がお見えになりまして、今晩集まりがございまして、皆さんが大抵お揃いになりましたから、どうぞ御主人様にも、早速おいで下さるようにとのことでございます」
「あ、そうだ、忘れていた、今日は例の集まりの日であった」
 福村は、急にそわそわとして、何かと用意をし、
「それじゃ行って参りますから、後のところをよろしく。なに、ちょっと面《かお》を出してすぐに戻って参りますよ、どうか御機嫌を直してお待ち下さるように」
 刀をたばさんで出かけようとするから、お絹もだまってはおれず、
「行っておいでなさい」
 無愛想に言った。その言葉に福村は、甘ったるい思いをしながら、ほくほく[#「ほくほく」に傍点]と出かけて行きました。集まりというのは、何かの賭事《かけごと》を意味しているこの一連の、どうらく[#「どうらく」に傍点]者の集まりに相違ない。
 残されたお絹は絵の本を置いて、この時はじめて、福村が買って来てくれた錦絵を一枚ずつ念入りにながめていましたが、それも見てしまうと、暫くぼんやりと物を考えているようでしたが、何か急にイヤ[#「イヤ」に傍点]な気がさして来た様子で、
「おとうや――」
 女中を呼んだけれども返事がありません。
「いないのかえ」
 だだっ広い屋敷のうちが、ひときわひっそり[#「ひっそり」に傍点]して、滅入《めい》りそうな心持です。
「どこへ行ったんだろう」
 お絹は、だらしなく立って廊下へ出て行きました。こんな時には早く寝てしまった方がと……厠《かわや》から出て手水鉢《ちょうずばち》の雨戸を一尺ばかりあけて見ると、外は闇の夜です。
 お絹が手水をつかっていると、植込の南天がガサリとして、
「御新造《ごしんぞ》」
「おや!」
 お絹がびっくり[#「びっくり」に傍点]しました。
「誰?」
 あわや戸を立てきって、人を呼ぼうという時、
「わたくしでございます、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でございます」
「百蔵さん――なんだって今時分、こんなところから」
 お絹が呆《あき》れて、立ち尽していると、
「ようやく尋ね当てて参りました」
 外に立っている男は、唐桟《とうざん》の襟のついた半纏《はんてん》を着て、玄冶店《げんやだな》の与三《よさ》もどきに、手拭で頬かむりをしたがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵であります。こうして不意に忍んで来ても、前以て相当の理解があればこそ、お絹もさほどには驚かないものと見えて、
「どうしてここがわかったの」
「昼のうち、あるところで、福兄さんの姿を見かけたものだから、あとをつけて漸《ようや》くわかりました」
「あんまり突然《だしぬけ》だから、こんなにびっくり[#「びっくり」に傍点]してしまった」
 お絹は胸へ手をさし込んでみる。
「……それでも笹子峠の時ほどびっくり[#「びっくり」に傍点]はなさるまい」
「あの時は命がけだったよ」
「こっちも命がけでしたよ。どうです、徳間峠の時と比べたら」
「あの時は怖かった、あんな怖い思いをしたことはありません」
「この通り右の片腕を打ち落されて、生れもつかぬ片輪にされちまったのは誰故でしょう」
「誰も頼みはしないのに」
「頼まれちゃやれません。時に御新造《ごしんぞ》、私はもう一ぺん危ない剣《つるぎ》の刃渡りをしてみようと思うんで。これはさる人から頼まれて、慾と二人づれなんだが――」
「まあ、ともかくもお上り」
といった時、表でガラリと戸のあく音がします。ハッと離れた二人。がんりき[#「がんりき」に傍点]は早くも庭の木立の蔭へかくれると、
 お絹は廊下を二足三足、
「福村が帰って来たようです」
「ちぇッ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は木蔭でいまいましがる。

「奥様、奥様」
「おとうかい」
 暗いところを摺足《すりあし》して歩いて来るのは、女中のおとうに違いありません。
「はい」
「お前、どこへ行っていたの」
「ちょっと、表までお使に行って参りました」
「だまって行っては困るじゃないか」
「どうも済みませんでした。あの、奥様……さっき、わたしが出かける時に、お家の裏の方にうろうろしている人影がありましたから、気味が悪うございました」
「だから、なおさらのことじゃないか……勝手元の締りをよくしてお置き」
「はい」
「それから、玄関の戸も、しっかり[#「しっかり」に傍点]錠をおろしておしまい」
「それでも、まだ旦那様がお帰りになりませんのに」
「多分お泊りだろう」
「左様でございますか」
「そうしてお前、もう休んでもいいよ、旦那様がお帰りになったら起すから」
「有難うございます」
 女中が行ってしまってから、小戻りして来たお絹は、
「百蔵さん、お入り」

 それとは別に、その晩、江戸の市中の一角を騒がすの事件がありました。
 とある幕府の重い役、老中の一人をつとめていたことのあるお屋敷の中の一隅で、かねがね賭博を開いていたものがある。もちろん、集まるほどの者は、邸外のやくざ[#「やくざ」に傍点]者であったが、それを張番しているのが邸内の馬丁《べっとう》ども(厩仲間《うまやちゅうげん》)であったがために、そのお屋敷の威光をかさに着て、だんだん増長してきたために、見のがせなくなって、その門外でお手入れがあったということで、その界隈は容易ならぬ騒ぎとなりました。そこで上げられた者は誰だか知らないが、風聞だけはかなりに喧《やかま》しく、なかには歴々《れきれき》の旗本さえあって、上げられた以外の者に、慌《あわ》てふためいて逃げのびたしかるべき士分の者もあったという。
 洗ってみれば、さほどの事件でもなかったろうが、その当座、事が秘密にされていたものだから、それをなかなか重大に考えたものがあって、江戸人の頑固な方面を代表する老人はなげきました。
「権現様が旗本をつれて江戸をお開きになった根元というものは、そういったものではなかったのだ、権現様は大きなお庄屋さん気取り、旗本は三河の田舎《いなか》ざむらいを恥としなかったものだが、世が末になればといって、今日このごろの有様は、ほんとうに浅ましくって涙もこぼれない、色里や歌舞伎者《かぶきもの》にチヤホヤされるのが江戸ッ児だと心得ているくらいだから、刀のさしようは知らなくっても、花札の引きようは心得て、町浄瑠璃《まちじょうるり》の一くさりも唸《うな》れなければ、さむらいではないと思っている、心中者が出来れば羽目《はめ》を外《はず》して大騒ぎをやる、かりにも老中のお屋敷がバクチの宿となって、旗本がお手入れを食って逃げ出したとは、なんというみじめ[#「みじめ」に傍点]な有様だ、これで世が亡びなければ亡びないのが不思議だが、しかし、さすがに権現様の御威光は大したもので、これほどに腐りきった屋台骨が、ともかくも無事で持ちこたえられているというのは、一《いつ》に東照権現の御威光のしからしむるところだ」
 しかし、また一方には、それをせせら[#
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