から行って来るから、お留守を頼みますよ」
「行っていらっしゃいまし」
「もし留守の間に、誰か尋ねて来ても、わからないと言って帰しておくれ」
「よろしうございます。それでもお母さん、いつかのように、わからなければ旦那のお帰りまで待っていると言って、坐り込むような人が来たらどうしましょう」
「そうね。では、面倒だから鍵をかけておしまい」
「はい」
「そんなに遅くならないうち帰って来るつもりだけれど、福兄さんとの話の都合で、もし遅くなるようだったら、誰かをお相手によこすから」
「承知いたしました」
「それからね、二階のお嬢様がモシどこかへ出たがっても、お出し申さないように。そうそう、勢ちゃんが病気なら、勢ちゃんをお伽《とぎ》によこそう」
「お勢さんが来てくれれば、本当の百人力ですけれど、わたし一人でも大丈夫ですよ」
「勢ちゃんをよこしましょう」
と言ってお角は、この家を出て行きました。

         十八

 両国の女軽業師の楽屋へ来て、お角を待っている福兄《ふくにい》なるものは、御家人崩れの福村のことで、巣鴨の化物屋敷では、天晴《あっぱ》れ神尾主膳の片腕でありました。
 今、楽屋の美人連中(あまり美人でないのもある)を相手に、しきりに無駄口を叩いている。歳はまだ若いが、でっぷり太って、素肌に羽二重の袷《あわせ》、一《ひと》つ印籠《いんろう》というこしらえで、
「そいつぁ乙だ、一番その朝比奈《あさひな》の口上言いというのを買って出ようかな」
「福兄さんが朝比奈をやって下されば、巴御前《ともえごぜん》はわたしのものでしょう」
と、腹が痛いと言って寝込んでいた力持のお勢が乗り出して来ると、はた[#「はた」に傍点]にいた美人連が、
「お勢さんの巴御前に、福兄さんの朝比奈は動かないところだわ。それでは、わたしは何を買って出ようか知ら」
「わたし、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になるわよ」
「わたしも、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]」
「では、わたしもおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になりましょう」
「あなたお米屋のおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になりなさい、わたし酒屋のおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になるわ」
「そう、それじゃ、わたしお肴屋《さかなや》のおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になるから、あなた薪屋のおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]におなりなさい」
「それから、わたしと組ちゃんとは、質屋と古手屋のおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になって、表口から乗込むことにしましょう」
「嬉しいわ、そうして、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]が揃って、万夫不当の朝比奈をぎゅうぎゅう言わせてやれば、ほんとに儲《もう》かるわねえ」
「そこへ、裏手から、こっそりと巴御前が現われて、窓口からお金を投げ込んで行くところは浚《さら》われても仕方がない、何でもおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]になって、朝比奈をギュウと言わせてやりさえすれば胸が透《す》くわ」
 美人連がはしゃぐ[#「はしゃぐ」に傍点]のに、福兄は多少の不服で、
「そうおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]ばかり出来たって、梶原《かじわら》がいなけりゃお芝居にならねえ」
「そうですね、梶原は誰のものでしょう」
「水芸《みずげい》のお政さんじゃ、少し年功が足りないわねえ」
「いやよ、わたし、梶原なんか大嫌い。同じ梶原でも、梅ヶ枝の源太なら附合ってもいいけれど、敵役《かたきやく》の梶原なんて、第一、わたしの柄にないわ」
「人魚のお作さんでも、憎みが利《き》かないかねえ」
「あれじゃ、あんまり温和《おとな》し過ぎるわ。と言って、蛇使いのお金さんは柄が小さいし」
「そうそう、あるわよ、あるわよ」
「誰?」
「怒られると悪いから」
「かまわないからお言いな」
「でも叱られるといやよ」
「誰も叱るものはいやしない、ねえ、福兄さん」
「ああ、どうして、梶原という役は、あれで色悪《いろあく》にはなっているが、ほんとうはなかなか腹のある奴だから、わりふられたって怒るがものはねえや」
「それじゃ言いましょうか」
「お言い、お言い」
「うち[#「うち」に傍点]の親方」
「なるほど、まあ、その辺だろう」
「そこで錦絵姫が一枚欲しいのだが、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]を外《はず》してお姫様をふる[#「ふる」に傍点]わけにもいかず、これも難役だろうじゃないか」
「お姫様なら、わたし代って上げてもいいわ」
「わたしも、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]をやめて、お姫様の方へ廻ろうか知ら」
「わたしは、おちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]はおちゃっぴい[#「おちゃっぴい」に傍点]として、お姫様と二役やってみたい」
「まあ、慾張り……」
「静かにおし、梶原様のお入《い》り」
 力持のお勢が眼面《めがお》で知らせたところへ、親方のお角がやって来ました。
 お角が現われると、美人連も急に引締まって、どてら[#「どてら」に傍点]を被《かぶ》って寝ていた力持のお勢でさえも、起きて迎えに出ました。
「勢ちゃん、あんばい[#「あんばい」に傍点]はどうです」
「有難う、格別のこともございません、よくなりました」
「大切《だいじ》におしよ」
 美人連は、そわそわとして持場持場についたり、控《ひかえ》へ出て行ったりして、そこに残るものは福兄とお角の二人だけです。
「福兄さん、よく無事でながらえておいでになりましたね」
「恐れ入りやした」
 福兄は明荷《あけに》のところへ背をもたせて、ちょっとばかり頭を下げて、
「拙者の方でも一別以来、ずいぶんの御無沙汰だが、親方、お前の方でもずいぶん薄情なものだ、化物屋敷が焼けて、御大《おんたい》はあの通り苦しんでいる、我々はみな散々《ちりぢり》バラバラになっているのに、ツイぞ今まで、福はどうしているかと、お見舞にあずかった例《ためし》がない」
「その恨みなら、こっちに言い分が大有りさ。立退き先をあれほど探して歩いたのに、わからないばかりか、わかりきっている行先をさえ、わたしにまで隠そうとなさるなんぞは、水臭いにも程のあったもの、癪《しやく》にさわってたまらなかったのさ」
「それにはまたそれだけの理窟があって、あの当座は、あんまりいどころを人に知られたくなかったのさ。その点は喧嘩両成敗として、御大《おんたい》も実は苦しみ抜いている、一度、見舞に行ってくれないか」
「上りますとも。上ってよければ今日にでもあがりますけれど、そんなわけだから遠慮をしていました」
「もう遠慮は御無用」
「神尾の御前のお怪我はどうですか」
「創《きず》は癒着するにはしたが、なにぶん、眉間《みけん》の真中を牡丹餅大《ぼたもちだい》だけ刳《く》り取られたのだから、その痕《あと》がありありと残って、まあ出来損ないの愛染明王《あいぜんみょうおう》といった形だ、とても、あの人相では、世間へ出る気にはなれないとあって、大将当分は引込んでいるはずだ」
「怖ろしいことでしたね。何しろ、あの時に釣瓶《つるべ》へ肉がパックリと喰付《くっつ》いた有様は、眼の前に物の祟《たた》りを見るようで、ゾッとしてしまいました」
「御大も、あの時のことを思い出すと癪にさわると見え、身ぶるいをして、憎いおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]坊主! と口惜《くや》しがっている」
「全く、あの小坊主は変な坊主でした、うちの茂太郎の友達だと言って来たこともありましたが、怖いほど勘のいい――」
「全くあの時分の化物屋敷は、名実共に化物屋敷であったが、御大があの形相《ぎょうそう》では、今後の化物ぶりが一層思い合わされるのだが、当分、田舎《いなか》に引込んで此方《こっち》へは出て来まい」
「どこへ引込んでおいでになっていますか」
「栃木の大中寺《だいちゅうじ》というところに、もとの知行所があって、そこへ隠れている」
「栃木の大中寺、たいへん遠いところへお越しになったものですね」
「なに、遠いといっても日光より近いのさ。一度、日光参詣をついでに、一緒に見舞に行かないか」
「ぜひお供を致しましょう」
「ところで、今日ワザワザやって来たのはほかではない、君にちょっと金儲けの口を授けようとして来たのだ。というのは、ながらく西洋へ売られて行って、あっちで珍しい手品を覚えて来た奴がある、それをうまく売り込みたがっている口を聞き込んだから、頼まれもしないのに持ち込んで来たものさ」
「それは耳よりの話ですねえ」
 お角は乗気になってしまいました。
「詳しい話は拙者のところへやって来給え、小石川の茗荷谷《みょうがだに》で、切支丹坂《きりしたんざか》を上って、また少し下りると、長屋門のイヤに傾《かし》いだのが目安だ……」

         十九

 両国橋の女軽業の小屋を出た御家人くずれの福村は、帰りがけに通油町《とおりあぶらちょう》の鶴屋という草紙問屋《そうしどんや》へ寄って、誰へのみやげか、新版の錦絵を買い求めながら、ふと傍《かたえ》を見ると、お屋敷風の小娘が一人、十冊ばかりの中本《ちゅうほん》の草紙を買い求めて、それを小風呂敷に包んでいるところであります。
 まず、その小風呂敷に目がつくと、紫縮緬《むらさきちりめん》のまだ巳《み》の刻《こく》なのに、五七の桐が鮮かに染め抜いてあります。はて、物々しい、と福村はそれに目を奪われて、いま包もうとする草紙を覗《のぞ》いて見ると、上の一揃いは「常夏《とこなつ》草紙」、下のは「薄雪《うすゆき》物語」、どちらも馬琴物と見て取りました。
「さようなら」
 代を払って、娘が店頭《みせさき》を去ると、
「毎度、御贔屓《ごひいき》さまに有難う存じまする」
 大切なお得意先と見えて、番頭は特別に丁寧に、この小娘のお使に頭を下げて送ったから、福村がはじめてこの娘を見直すと、
「お松どのではないか」
 娘が振返って見て、
「まあ、福村様」
 二人は鶴屋の店頭《みせさき》で、意外の邂逅《かいこう》に驚いた体《てい》です。
 娘は申すまでもなく、本所の相生町の老女の邸のお松であって、この男を知っているのは、ずっと以前、神尾主膳の伝馬町の屋敷に仕えていた時分のことで、その時分から、この福村は神尾の屋敷へ出入りしていた道楽友達であります。
 あの時分にはなんといっても、神尾は由緒《ゆいしょ》ある旗本の株を失わなかったし、福村も今ほどくずれてはいなかったから、お松は主人筋のお友達に出逢った気持で、福村様といいました。ところが、今では軽業小屋の美人連からでさえも、福兄さんで通っている福村は、お松にかく慇懃《いんぎん》に福村様と呼びかけられて、多少きまりの悪い形です。
「いかさま珍しいことじゃ、いったいお松どの、君は今どこにいるのだね」
「本所の方におります」
「本所――本所はどこだね」
「本所は相生町でございます」
「相生町――」
といって福村は、お松の姿と、抱えている風呂敷包とを、事新しくながめます。お松の姿はお屋敷風で、その胸にかかえているのは、今もたしかに見ておいた通り、五七の桐を白抜きにした紫縮緬の風呂敷であります。そこで、ちょっと福村が、胸の中で、相生町へ当りをつけてみました。相生町辺でしかるべきお屋敷――それも格式の軽くない五七の桐を用いているお屋敷。福村は地廻り同様にしていた土地だから、ちょっと当りをつけようとしてみました。
 エート、相生町の一丁目から五丁目までの間には、しかるべき大名旗本の屋敷はないはずだが、お台所町へ出ると、土屋相模守と本多内蔵助がある。土屋は九曜《くよう》で、本多は丸に立葵《たてあおい》。緑町へ行って藤堂佐渡守の下屋敷、あれは蔦《つた》の葉、津軽越中守は牡丹丸。こう考えてくると、あの辺で五七の桐を用うる屋敷は思い当らないのであります。そこで、
「相生町は、誰のお屋敷?」
とたずねると、お松も、ちょっと返事に困ったらしく、
「御老女様のお屋敷に、お世話になっておりまする」
「御老女様?」
 これも福村には頓《とみ》に合点《がて
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