気をつなぐこともできよう、そのうちに、またまた奇策をめぐらして、満都といわないまでも、満両国橋をあっといわせることはお手の物だという得意があっただけに、途中で茂太郎を奪われたことが痛手です。
いったい、この女が最近において当てた二ツのレコードは、印度の黒ん坊の槍使いと、それから山神奇童の清澄の茂太郎に越すものはないのに、二つとも大当りに当りながら、どちらも途中で邪魔の入ったのが癪《しゃく》です。
「ちぇッ、どこかで見たっけ、あのちんちくりん[#「ちんちくりん」に傍点]の黒ん坊を。もう一ぺん引張って来ようか知ら」
と、お角がいまいましそうに未練を残してみたのは、例の宇治山田の米友のことであります。
「あれならば、まだまだけっこう人気が取れるんだけれど、あいつは、馬鹿正直で、まるっきり商売気というものが無いんだからやりきれない」
お角は、米友に未練を残しながら、煙管《きせる》をやけにはたいて、それからそれと問わず語りをはじめている。
「お祖師様の一代記を菊人形に仕組んでみたら、という者もあるが、あれはいけないねえ、人々《にんにん》に相当したことをやらなけりゃ物笑いだからねえ……いっそ、上方から女浄瑠璃の大一座でも招《よ》んで来ようか知ら。それも大がかりだし、第一それじゃ今の一座が納まるまいし……」
とつおいつの末が、朱羅宇《しゅらう》の煙管へ、やけ[#「やけ」に傍点]に煙草を詰め込むのが落ちで、むやみに焦《じれ》ったがっているところへ、二階で物音がしましたから、吸いかけた煙管をはなして天井を見上げている。
「お起きなすったのか知ら」
ここは、両国橋の雑沓《ざっとう》が聞えない程度の距離のしもたや[#「しもたや」に傍点]で、大抵のお客は断わって、次興行の秘策をめぐらすお角の唯一の控所であるのに、二階でまだ寝込んでいた人があるとすれば、それは誰だろう。お角も相当に腹のある女だから、まさかがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵のような男を、ここへ引張り込んで寝泊りをさせるようなこともあるまいに。
お角が、天井を見上げている間に、二階で物音をさせていたのが静かに歩いて来て、やがて梯子段の上がミシリミシリと音を立てはじめる。そこでお角はやや居ずまいを直して、
「お嬢様、お危のうございますよ」
煙管を片手に梯子段を見上げていると、だまって下りて来る人があります。ほどなくお角の前へ姿を現わしたのは、ねまきに羽織を引っかけた女の姿に違いはないけれど、どうしたものか、頭からすっぽりとお高祖頭巾《こそずきん》をかぶったままです。
「おかみさん」
「お嬢様、もうおよろしうございますか」
「ええ、もう癒《なお》ってしまいました」
お角が、ていねい[#「ていねい」に傍点]であるのに、女はなかなか鷹揚《おうよう》です。それに、いくらなんでも、人の前に出て頭巾をかぶったなりに挨拶をするのは、みようによっては甚だしい横柄《おうへい》なもので、それをお角ほどの女が、一目置いて応対しているのは、よほどの奇観といわなければならないことです。
「まあ、お話し下さいまし、わたしも退屈して困っていますから、どうぞ」
といって、お角は、さながら主筋にでも仕えるように、至ってていねい[#「ていねい」に傍点]に座蒲団をすすめると、女は、その上へ坐っても、いっこう頭巾を取ろうとしないし、お角も一向、それを気にしていないのがおかしいほどです。
それからお角が、お茶をすすめたり、羊羹《ようかん》をすすめたりしていると、
「おかみさん」
「はい」
「わたしは、もうすっかり癒《なお》りましたから、どうぞ、わたしの頼みを聞いて下さい」
「ですけれども」
「いいえ、かまいませんから」
お高祖頭巾の女は、何かを頼みに来たのです。けれども、頼むというよりは圧迫するような態度で、それをお角ほどの女が、あしらい兼ねているあんばいがいよいよ変です。
「ですけれども、お嬢様……」
と、お角がようやく立て直して、
「そう申してはなんですけれども、わたしは、あなたが、もうあの方にお目にかからないのがおためになると存じます」
「それはどうしてですか」
「あなたは、御存じになっておりますか知ら」
「何を」
「あの方の本当のお名前を」
「エエ、あれは机竜之助と申します、吉田竜太郎というのは仮りの名前です」
「そうしてお嬢様、あなたのごらんになったのでは、あの方は善い人ですか、それとも悪い人ですか」
「どちらだか知りませんが、わたしは、あの人が大好きなのです」
「もし、悪い人であっても?」
「ええ、あの人がほんとうに、わたしを可愛がってくれるから、それでわたしはあの人が忘れられません、あの人だけがほんとうに、わたしを可愛がってくれるのです。それは、あの人が眼が見えないからです、眼が見える人は一人でも、わたしを可愛がる人はこの世にありません」
「けれども、お嬢様、あの方は悪人ですよ、あの方の傍にいると、いつか、あなたも殺されてしまうことを、お忘れになってはいけません」
「いいえ、あの方は、決してわたしを殺しはしません……わたしを殺さないだけではなく、わたしが傍にいれば、あの方はほかの人を殺さなくなるのです。わたしとあの人とは、しっくりと合います、わたしの醜いところが全く見えないで、わたしの良いところだけが、この肉体《からだ》も心も、みんなあの人のものになってしまうのですから。わたしは、天にも地にも、あの人よりほかには可愛がってくれる人もなければ、可愛がって上げる人もないのです……後生《ごしょう》ですから、あの人に会わせて下さい、いくらお金がかかってもかまいませんから、あの人の行方を探してみて下さい」
この女はお銀様――甲州有野村の富豪藤原家の一人娘。花のような面《かお》を、鬼のように焼き毀《こぼ》たれてから、呪《のろ》われた肉体《からだ》に、呪われた心が宿ったのはぜひもありません。スラリとした娘盛りの姿に、寝るから起きるまでお高祖頭巾の裡《うち》につつまれた秘密、それに触るるものは呪われ、これに触れずしてその心だけを取るもののみが、溶鉱のように溶けた熱い肉に抱かれる。
お角はお銀様だけがどうも苦手《にがて》です。この人に向うとなんだか圧《お》され気味でいけない。なんという負い目があるわけではないが、この人には、先《せん》を制されてしまいます。そこで申しわけをするように、
「よろしうございます、そういうことを頼むには慣れた人を知っていますから、近いうちに、キッとお嬢様のお望みの叶うようにして上げましょう」
「どうぞ、お頼み申します」
といってお銀様は、お辞儀をして立って行きました。
二階へ上って行く後形《うしろすがた》を見ると、スラリとしていい姿です。品といい、物いいといい、立派な大家のお嬢様として通るのを、あのお高祖頭巾の中の秘密が、めちゃくちゃ[#「めちゃくちゃ」に傍点]に、一つの人生を塗りつぶしてしまうかと思うと、さすがに不憫《ふびん》ですが、鉛色に黒く焼けただれた顔面の中には、白味の勝った、いつも睨《にら》むような眼差《まなざ》し。お角でさえも、その眼で見られた時は、ゾッとして面《おもて》を外《そ》らさないことはありません。
お銀様が二階へ上ってしまうと、ホッと息をついたお角は、急に何かの重し[#「重し」に傍点]から取られたような気持になってみると、今の不憫さが、腹立たしいような、嫉《ねた》ましいような気持に変ってゆきます。巣鴨の化物屋敷の土蔵の二階で、あの人と机竜之助とが、うんき[#「うんき」に傍点]の中で、夜も昼も水綿《みずわた》のように暮らしていた時のことを思うと、お角は憎らしい心持になって、よくも図々しく、人にあんなことが頼まれたものだと、やけ[#「やけ」に傍点]気味で煙管を取り上げると、その時、表の格子戸がガラリとあいて、
「こんにちは、御免下さいまし」
「おや、誰だい」
「按摩《あんま》でございます」
「按摩さんかえ、さあお上り」
「どうもお待遠さまでございました、毎度|御贔屓《ごひいき》に有難うございます」
按摩は、こくめい[#「こくめい」に傍点]に下駄へ杖を通して上へあがって来ると、お角はクルリと向きをかえて、肩腰を揉《も》ませにかかる。
「なんだか雨もよいでございますね」
「降るといいんだがね」
「左様でございますよ」
按摩は臂《ひじ》でお角の肩をグリグリさせながら、お天気のお世辞をいっているとお角は、その腕の逞《たくま》しいところを見て、
「按摩さん、お前は幾つだえ」
「え、私の年でございますか、まだ若うございますよ」
「若いのは知れているが、幾つにおなりだえ」
「エエ、十三七ツでございます」
「ちょうど?」
「左様でございます」
「おかみさんはありますか、それともまだ一人ですか」
「へへえ……」
「なんだね、その返事は。あるのですか、ないのですか」
「あるのですよ、一人ありますのですよ」
「一人ありゃたくさんじゃないか」
「おかげさまでどうも……相済みません」
「おかみさんがあったって、済まないことはないじゃないか」
「なかなか親切にしてくれますから、それで私も助かります」
「おやおや。そうして何かえ、そのおかみさんは容貌《きりょう》よしかね」
「へえ、容貌《きりょう》のところは私にはわかりませんが、皆さんが、私には過ぎ者だとおっしゃって下さいます」
「やりきれないね」
「ところが、ごしんさま、容貌がよくて、気立ての親切な申し分のない女が、私共みたような不具者《かたわもの》のところへ来てくれるからには、どのみち、ただ者じゃありますまい」
「前はどうだっていいじゃないか、今さえよければ」
「ところが、今だって本当のところはどうだかわかりゃあしません、わからないけれども、私は最初から眼をつぶっていますからね」
按摩の言葉は、妙にからんで来ました。
按摩を相手に話しているところへ、勝手口から静かに入って来て、
「お母さん、ただいま戻りました」
「梅ちゃんかえ」
そこへ、手をついたのは十四五になる小娘であります。
「帰りに、楽屋の方へ廻って来たものですから、ツイ遅くなりました」
「楽屋では変ったこともなかったかエ」
「あの、力持のお勢《せい》さんが、少しお腹が悪いと言って寝ていました」
「勢ちゃんがかい」
「ええ、それでもたいしたことはないのでしょう、寝ながらみんなと笑い話をしていましたから」
「鬼のかくらん[#「かくらん」に傍点]だろう」
「あ、そうそう、福兄《ふくにい》さんが来て待っていました、今日はどうしても親方にお目にかかりたいが、いつ帰るだろう、帰るまでまっているとおっしゃいました」
「ここを言やあしないだろうね」
「エエ、誰も言いませんでした。多分、晩方までには帰るでしょうと、お勢さんが言いましたら、福兄さんが、それじゃ晩方まで待っていようとお言いでした」
「何だろう」
お角が、ちょっと首を傾《かし》げた時に、按摩《あんま》は一通り療治を終って、
「どうも御窮屈さまでございました」
「御苦労さま」
そこで按摩にお鳥目《ちょうもく》をやって帰してしまってから、お角はまだ思案の体《てい》で、
「福兄さん一人で来たのかエ、誰もお連れはなかったかエ」
「ええ、どなたもお連衆《つれしゅう》はありませんようでした」
「あってみようか知ら」
小娘は唄の本を箪笥《たんす》へ載せて、勝手元を働こうとするのを、お角が呼び留めて、
「そっちはあとにして、二階のお嬢様に御膳《ごぜん》を上げて下さい」
「承知いたしました」
この小娘は、お角が掘り出して貰い受け、今、仕込み最中の、ちょっといい子で、お母さん呼ばわりをして懐《なつ》いています。膳ごしらえをして二階へ上ったあとで、お角は巻帯をズルズルと解いて、着物をきがえにかかりました。
藍の小弁慶のお召の半纏《はんてん》を着て、鏡に向って立膝をしながら、洗い髪の兵庫《ひょうご》に、黄楊《つげ》の櫛を無雑作《むぞうさ》に横にさして立ち上るところへ、二階から小娘が下りて来ました。
「梅ちゃん、わたしは、これ
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