とき私は、ほろほろと啼《な》く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う母かとぞ思う、のお歌を思い出しまして、この見えぬ眼から、しきりに涙をおとしたことでございます。私共の心眼さえ開いておりますならば、山鳥の音を聞きましても、まことの父と母との御姿を拝むことができましょうのに、小器劣根の私には、それができませんのかと思うと…‥」
 弁信法師は、ここに至ってハラハラと泣いてしまいましたが、やがて涙を払って、
「斯様《かよう》なお喋りはやめにいたしまして、いかがでございましょう、お邪魔にならなければ、拙《つたな》い琵琶の一曲を奏《かな》でてお聞きに入れましょうか」
 誰に話しているのだか、誰が聞いているのだか知らないが――また、これから誰に聞かせようというつもりか知らないが、弁信法師は、琵琶をかかえて縁に立ち出でました。
 そこで調子を合わせにかかると、葉鶏頭《はげいとう》の多い庭先から若い娘が、息せききって駆け込んで来て、
「弁信さん、大変が出来ました」
「エ、お雪さん、大変とは何でございます」
 弁信は琵琶の調子を合わせていた手をとどめると、娘は、
「先生はおいでですか……あの、姉が殺されましたそうで」
「エ?」
 弁信が琵琶を手放してしまうと、娘は、
「たった今、人が来て、このことを知らせてくれましたから、先生に……」
 娘は、倒れるように縁側へつかまって、面色《かおいろ》も変り、唇がわなないて見えます。
「ああ、それ故にこそ私は、さいぜんからなんとなく胸騒ぎが致したのでございます、さあ、落着いて委細のことを先生に話して上げて下さいまし」
「御免下さいまし」

 娘は、やっと縁をのぼって座敷へ通ると、そこに病人でもあるように、蒲団《ふとん》の上に横たわっていたのが、いま半身を起き直しているところの、一箇《ひとり》の男の枕辺に坐ると、
「お若どのが殺された? どこで、誰にやられました」
と尋ねるその人は、机竜之助です。
 いつになっても蒼白《あおじろ》い面《かお》。その時は僧の着るような白衣一枚で、蒲団の中にいたのですが、起き直って帯を結び直して坐ると、
「誰が何の恨みでしたのか、わたくしはすこしも存じませんが、江戸に近い巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところで、惨《むご》たらしく殺されてしまったそうでございます」
といって娘は、声を立てて泣きました。
「巣鴨の庚申塚で?」
「多分、追剥《おいはぎ》にでもつかまったのでございましょう……そうでなければ、人に恨みを受けるような姉ではございません」
「嗚呼《ああ》!」
 弁信法師が傍らから、思わず感歎の声を立てたのは、その出来事の悲惨に悲しむよりは、姉を信ずる妹の心に動かされたようです。
「姉は、人に恨みを受けるような人ではありませんでしたのに……」
 娘は重ねて、さめざめと泣きながらいいました。
「いいえ、あなたの姉さんは、人に恨みを受けているのですよ」
 弁信法師がいいますと、泣いていた娘は、躍起《やっき》となって、
「それは違います、わたくしは、あの姉さんとは義理ですけれども、あんな親切な姉さんはありませんでした、皆の人に好かれました、恨みを受けて殺されるような人ではありません」
「親切な人だから恨みを受けたのです、人に好かれるから恨みが集まるのですよ、好かれない人は恨まれません」
「違います、違います」
 娘は袖に面《かお》を押当てて頭を振りましたが、やがて声を立てて泣きふしてしまうと、竜之助は、
「誰が殺したかわからないのですか」
「先生、殺したのはあなたです、あなたのほかにあの方を殺したものはありません」
と弁信がいいました。
「ナニ?」
「嘘と思召《おぼしめ》すなら、前生《ぜんしょう》および後生《ごしょう》をたずねてごらんなさいまし。天上へ昇りましょうとも、地下へ降《くだ》りましょうとも、あの方の真白い胸に、血のついた刃《やいば》を突き刺している姿を、あなたのほかに見出すものがありましたら不思議でございます」
「弁信さん、何をおっしゃるのです、ここにおいでなさる先生が、どうしてそんなこと。あなたは血まよっておいでなさいます」
と娘がささえると、弁信は澄ましきって、
「私は血まよっておりません、私のいうことが本当でございます」
「弁信さん、そういう無茶なことをおっしゃっては先生に申しわけがありません、あなたは何か勘違いをしておいでになります」
 娘は泣きながら弁信をたしなめるのも無理はありません。ここと巣鴨の庚申塚とは、数十里を離れているのに、当人は半ばは病気で、その上に目の光を奪われている身であるのに――
 それでも竜之助は、弁信のいったことを、娘が気にかけているほど気にかけないと見えて、
「かわいそうなことをした」
といったきりで、口を結んでしまいました。
「御免下さいまし、また上ります」
といって、娘は泣きながら、庫裡《くり》の方へ帰ってしまったあとで、竜之助は蒲団《ふとん》の下に敷いて寝ていた白鞘物《しらさやもの》の一刀――殺されたという女が記念《かたみ》にくれた――それを取り出して膝へ引寄せました。引寄せてみたところでどうなるものか、この刀に、その女の魂魄《こんぱく》が残っているわけではあるまいし、といって、見えぬ目の前にいる見えぬ同士の弁信を、どうしようというのでもあるまい。五十丁峠から陣馬へかかるところで、みちに迷うて行きつ戻りつしていた駕籠を、無事にこっちへ引向けて、予定通りこの月見寺へ導いて来たのは、ほかならぬお喋り坊主のおかげではなかったか。
 その弁信法師は、この時分、もう再び琵琶をかなでるの元気はなくなったと見え、そうかといって、それを蔵《しま》おうでもなく、しょんぼりとして縁先に坐ったままです。
 空の月は、青根から大群山《おおむれやま》の上をめぐっている。
「弁信殿」
「はい」
 竜之助の問いに弁信が、例によって神妙な返事をします。
「お前は心あってああいうことを言われるのか、それともその時の出まかせか」
 重ねて竜之助が問うと、弁信は、
「左様でございます」
 同じところを向いたままで、同じようにしょんぼりとしたままで、
「私は口が過ぎていけません。そのことは知らないではありませんから、自分ながら慎《つつし》みをしようかとも思いますけれども、その場合になりますと、そういう感じがフイに湧き起って参りまして、そう言わなければだまっていられないのでございます。言ってしまったあとで、ハッとは思いますけれども、なおよく考えてみますと、自分のいったことが間違っていたとは思われませんので、これはいい過ぎたと後悔を致したことが更にございませんのです。その時はお笑いになった方々まで、あとになりますと、私の申したことにヒタヒタと思い当ることがおありなさると見えて、さのみ私をお咎《とが》めにもなりませんのでございます」
「では、ここにいる拙者が、巣鴨まで人を殺しに行ったのも本当かも知れない」
といって竜之助は、冷たい笑いを例の蒼白い面《おもて》に漂わせましたが、何としたものか、その笑いが急に止むと、その面がみるみる真珠のような白味を帯びて、ひとむらの殺気が濛々《もうもう》として、湧き上って来るようです。
 その時、弁信法師はこれも何と思ったか、ヒラリと縁を飛び下りて、下に揃えてあった草履《ぞうり》を穿《は》き、すたすた[#「すたすた」に傍点]と庭へ下りて行って、庭の一隅《いちぐう》に四寸角、高さ一丈ほどの卒塔婆《そとば》が立って、その下に小石が堆《うずたか》く積んであるところへ来ると、腰を屈《かが》めて合掌し、
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と唱えて、その小石を一つずつ取っては移し、取っては移ししていました。その時|褥《しとね》をガバと蹴って跳ね起きた竜之助は、白鞘の刀を抜いて縁先に立ちましたが、その見えない目は、まさしく盲法師の弁信に向っている。
「あ、先生! あなたは私をお斬りになろうというのですか」
 目の見えない弁信の振向いた面《おもて》は、やはりピタリと竜之助の面に合っています。
 何ともいわない竜之助の白衣の全身から、まさしく殺気が迸《ほとばし》っているのを感得した弁信の恐怖を、誰あって来り救おうとするものもありません。
 ヒラリと卒塔婆の蔭に身を移した弁信は、恐怖は感じながらも、叫びを立てて人を呼ぼうでもなく、
「先生、あなたが私を斬ろうとなさるのはいけません、今までにないことでございます、今まで私は、あなたの傍におりましても、更にその殺気というものを受けたことがございませんから、少しも怖れというものが起りませんでしたけれども、今は怖れます、あなたは、たしかに私をもお斬りになろうという覚悟で、それへおいでになりました」
 弁信の小楯《こだて》に取った卒塔婆の一面に、この時、真向《まとも》に月がさすと、それに、
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「若残一人、我不成仏」
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の文字がありありと読める。ただ、斬ろうとする人も、斬られようとする人も、共にそれが認められないだけです。
「此寺《ここ》へおいでになってから、これで二度《ふたたび》あなたの身に殺気の起ったことが私の心に響きました。その一度は、先日の夜、あなたは、今のあの娘さん――お雪ちゃんというのを斬ろうとなさいました。その時、私が感づいたものですから、不意に中へ入ってお雪ちゃんを助けてやりました。それともう一つは、たった今、私を斬ろうとなさるその心です。悲しいことではございませんか、まだ、あなたは人を斬らなければならないのでございますか」
といったけれども、何の返答もなく、刀を提げてそろそろと縁を下りて、沓脱《くつぬぎ》の上に並べてあった草履をつっかけると、声をしるべに徐々《しずしず》と弁信の方へ近寄って参ります。
 そこで、弁信は、いよいよ圧迫されて、苦しまぎれの絶叫を振絞って、人を呼ぶかと見ればそうではなく、
「先生、私は、あなたの殺気を怖れます、けれども自分の命を取られることを、さのみ怖れは致しません」
 この場合において、お喋り坊主の減らず口は、必ずしも減らず口とは思われないほどの冷静を持っています。それには頓着無しの竜之助は、刀を片手の中段に持ち直して、ジリジリとそれを突きつけて来る呼吸は、絶えて久しく見ない「音無しの構え」です。兎を打つにも全力を用うるという獅子の気位か知らん。この身に寸鉄もない……寸鉄があったからとて、それを用うる術《すべ》を知らない盲目の小法師に向ってすらが、彼は正式にして、対等の強敵に向うと同じ位を取って突きつけて行く時に、言おうようない悽惨《せいさん》な力が、その刃先といわず、蒼白い冴《さ》えた面《おもて》といわず、白衣に月を浴びた五体といわず、さっと流れて面を向くべくもないのであります。
 ところで、不思議なるは弁信法師。この凄まじい刃先を真向《まとも》に受けて、それを相も変らず卒塔婆《そとば》の蔭に避けてはいるが、一向に悪怯《わるび》れた気色が見えません。
「私は死ぬことを怖れません……染井の屋敷で、神尾主膳のために井戸の底へ投げ込まれた時に、死は怖れではなくして、悦びであることを悟りました、その時まではいわれがなくして死ぬのがいやで、必死で生きることに執着は致してみましたけれど、今となっては、いわれがありましょうとも、なかりましょうとも、死ぬべき時に、死ぬることを怖れは致しませんが、また甘んじて免れ得らるべき命を、殺したいとも思ってはおりませんのでございます」
といいながら、ジリジリと迫って来た刃先を左へ廻って避けました。その時、月の光もまためぐって、卒塔婆にうつる一面の文字には、
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「我不愛身命、但惜無上道」
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 月は冷やかに、道志脈の上を徘徊《はいかい》すること、以前に変りはありません。
 この頃、月をながめている人の話によると、時あって月が紅《あか》く見えるそうです。多分、それは黄塵が空中に満ちて、銀環《ぎんかん》の色を消す所以《ゆえん》のものでありましょうが、人によってはそう見ませ
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