それはまさしく南条力の手から出でたもの。
 南条力は、絶えず自分の仕事の邪魔者である山崎譲を亡きものにしたいと思っている。南条の心持では、あえて山崎一人を敵とするのではないけれど、この男あるがために、ややもすれば大事の裏をかかれようとする。それが苦手で、ついに宇津木兵馬を唆《そその》かした。
 兵馬とても、理由なしに唆かされて、それに応ずるほどの愚か者でなし、ことに山崎は京都にいた時分には、同じ壬生《みぶ》の新撰組で、同じ釜の飯を食った人である。唆かされて討つ気になるほど兵馬もうつけ[#「うつけ」に傍点]者ではないはずなのに、ついにそれを引受けてしまったのは、誰のためでもない女のためです。知らず識らず陥《はま》り込んだ女が、他《あだ》し人の手に身受けされようとする噂を聞き込んで、矢も楯もたまらずに、彼は南条の勧誘に従いました。そうして彼は、四谷の大木戸に待受けて山崎を斬ったのです……ところがそれは当の相手ではなくて、名もない、罪もない、飛脚の男であった。兵馬は慚愧《ざんき》と煩悶《はんもん》とを重ねて、もはや南条に合わす面《かお》はないと思い込んでいたのに、南条の方は案外|磊落《らいら
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