方を盗み出して、たしかにこの町あたりまで入り込んだ形跡があるようで、江戸の市中の取締が轡を並べて追いかけて来たということです。いや、それは奥方ではない、お部屋様だという者もありました。ともかくも諸侯の秘蔵の寵者《おもいもの》を盗み出して、連れて逃げるということであってみれば容易ならぬことです。
 その探索の手にかかった町民の迷惑というものもまた容易なものではありません。泊り合せた旅人どもの迷惑というものも容易なものではありません。まして婦人の驚愕《きょうがく》と狼狽《ろうばい》は見るも気の毒な有様。
 遥《はる》かに離れているとは言いながら、常の人よりは三倍も五倍も勘《かん》の鋭い弁信が、その騒ぎを聞きつけないはずはありません。
「茂ちゃん」
「何だい」
「府中の町は今、上を下への大騒ぎをやっているね」
「そうか知ら」
「何か大変が出来たのに違いない」
「何だろう」
 二人もまた安き心がなく、自分たちの追われた府中の町をながめて、茂太郎は立ったまま、弁信は坐ったままで、伸び上っているけれど、その騒ぎの要領を得るには少し離れ過ぎています。
「いけない、お月様まで隠れてしまった、さっきまで
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