の》が轡《くつわ》を並べて集まりました。新田義貞《にったよしさだ》が鎌倉勢に夜うちをかけたのもここであります。頼朝がここに集めた関八州の兵は、総勢二十八万騎ということだから、かなりの人数でありましたろう。義貞が北条勢を相手にした時は、太平記によると、
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「義貞追ひすがうて、十万余騎を三手に分けて三方より同じく鬨《とき》を作る、入道|恵性《えしよう》驚きて周章《あわ》て騒ぐ処へ、三浦兵六力を得て、江戸、豊島《としま》、葛西《かさい》、川越、坂東《ばんどう》の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手《くもで》、輪違《わちがひ》、十文字に攻めたりける、四郎左近太夫|大勢《たいぜい》なりと雖も、一時に破られて散々《ちりぢり》に、鎌倉をさして引退《ひきしりぞ》く」
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 茂太郎は程よきところへ蓆を敷きました。弁信はその上へ乗って、後生大事《ごしょうだいじ》に抱えて来た琵琶を、そっとさしおいてから、きちんと座を構えると、つづいて茂太郎が前と同じように介添役《かいぞえやく》気取りで、少し前へ避けて坐り、さて、弁信は再びおもむろに琵琶の調子をしらべにかかると、

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