へえ、どなたでございますか、まことに申しわけがございません」
 せっかく、曲も終りに入ろうとする時に、正直な弁信法師は、撥《ばち》をとどめて返事をしました。
「申しわけがございませんじゃない、断わりなしに社《やしろ》のお庭へ闖入《ちんにゅう》しては困るじゃないか」
「まことに申しわけがございません……」
 弁信法師は琵琶を蓆《むしろ》の上にさしおいて、さて徐《おもむ》ろに弁明を試みようとする態度であります。
「申しわけがないと悟ったら、早く出て行かっしゃい」
 長い竿で、弁信の頭をつつこうとします。
「ええ、少々、お待ち下さいまし、ただいま、立退きまするでございます……立退きまするについては、一応お話を申し上げておかなければなりませぬ。それと申しますのは、わたくしはこうやって、お断わりを申し上げずにお庭を汚《けが》して拙《つたな》い琵琶を掻き鳴らしましたのは、なんとも恐れ入りましたことでございまする。ただいまやりましたのは、お聞きでもございましょうが、平家物語のうちの旧都の月見の一くだりでござりまする。お聞きの通り拙い琵琶ではござりまするけれども、これでもわたくしが真心《まごころ》をこ
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