めた夜霧の中から、不意に響いて来たのは人の声です。それも優しい子供らしい声でしたから、
「おや!」
「失礼でございますが、あなた方は、そこで何をしておいでになりますか」
 続いて彼方《かなた》の夜霧の中から起った声は、以前と同じく優しい子供らしい声で、しかもこの時は一層はっきりして、朗々たる音吐《おんと》になっておりました。
「道に迷ったんだよ」
 駕籠屋は、不意や、おそれや、癇癪《かんしゃく》や、いろいろの思いで投げ出すように返事をしますと、先方で、
「私もそうだと存じましたから、失礼ながらこちらから言葉をかけてみましたのでございます、さいぜんから、あなた方は同じ所を往きつ戻りつなさっておいでの御様子が、只事とは思えませんのでございますものですから、もしやとお尋ねを致しました。斯様《かよう》に申しまする私は、決して怪しいものでもなんでもございません、もと安房国《あわのくに》清澄《きよすみ》の山におりました小法師でございまして、あれから一度は江戸へ出て参りましたが、江戸も少しさわることがございましたために、私に幼少の折から琵琶を教えて下さいました老師が、あの高尾山薬王院に隠居をしておい
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