うに、大だるみ[#「だるみ」に傍点]の方面へ走った峰つづきの松原の方を眺めました。
「なるほど」
「何だろう、あの火は」
「提灯でもなし」
「焚火でもなし」
 駕籠の中で、それを聞いていた竜之助は、むらむらと昨夜《ゆうべ》の夢を思い起しました。その松林には、はるばると甲州の白根の奥から来た肉づきの豊かな年増《としま》の山の娘がいて、その火は、温かい酒と松茸《まつたけ》を蒸しているのではないか。
「こっちへ来るようでもあるし、あっちへ行くようでもあるし」
「いやな色をした火だなあ」
 駕籠《かご》の歩みが、こころもち遅くなったのは、すすき尾花の丈がようやく高くなって、歩みわずらうせいでしょう。
「だけんど、おれはこの道でおっかねえと思ったのは、たった一ぺんきりさ」
と前棒《さきぼう》の若いのが、おじけがついて、強がりをいってみたくでもなったもののようです。
「そりゃあ、どうしてだ」
「高尾の山には天狗様がいるという話だが、おれは、三年ばかり前の晩景《ばんげ》、この通りでその天狗様にでっくわしてしまった。なあに、鼻も高くはないし、羽団扇《はうちわ》もなにも持っちゃいなかったし、あたりまえの
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