けて、それを相も変らず卒塔婆《そとば》の蔭に避けてはいるが、一向に悪怯《わるび》れた気色が見えません。
「私は死ぬことを怖れません……染井の屋敷で、神尾主膳のために井戸の底へ投げ込まれた時に、死は怖れではなくして、悦びであることを悟りました、その時まではいわれがなくして死ぬのがいやで、必死で生きることに執着は致してみましたけれど、今となっては、いわれがありましょうとも、なかりましょうとも、死ぬべき時に、死ぬることを怖れは致しませんが、また甘んじて免れ得らるべき命を、殺したいとも思ってはおりませんのでございます」
といいながら、ジリジリと迫って来た刃先を左へ廻って避けました。その時、月の光もまためぐって、卒塔婆にうつる一面の文字には、
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「我不愛身命、但惜無上道」
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 月は冷やかに、道志脈の上を徘徊《はいかい》すること、以前に変りはありません。
 この頃、月をながめている人の話によると、時あって月が紅《あか》く見えるそうです。多分、それは黄塵が空中に満ちて、銀環《ぎんかん》の色を消す所以《ゆえん》のものでありましょうが、人によってはそう見ませ
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