の私の悲しい心の底を驚かせてくれるものがございません。泣ける時に泣けない人、笑える時に笑えない人、驚く時に驚けない人は、恵まれない人でございます……衆生《しゅじょう》病むが故に我も病む、と維摩居士《ゆいまこじ》も仰せになりました。生々《しょうじょう》の父母、世々の兄弟のうち、一人を残さば我れ成仏《じょうぶつ》せじというのが、菩薩の御誓いだと承りました。大慈悲の海の一滴の水が、私共のこの胸に留まりまするならば、たとえ私のこの肉の眼から一切の光が奪われまして、この世の空にかかる月は姿を見せずとも、本有心蓮《ほんぬしんれん》の月の光というものは、ゆたかに私共の心のうちに恵まれるものに相違ございませんが、何を申すも無明長夜の間にさまようて、他生曠劫《たしょうこうごう》の波に流転《るてん》する捨小舟《すておぶね》にひとしき身でございます、たどり来《きた》ったところも無明の闇、行き行かんとするところも無明の闇……ああ、どなたが私をこの長夜の眠りから驚かして下さいます……昨日も私はこの裏の山へ入って行きますと、山鳥の声がしきりに耳に入りました。目は見えませんでも、物の音は耳に入るのでございます。その
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