ず。自分は空しくその額面を仰いで見たが、早過ぎたといっても、もう日は廻って、薄暗い堂内の空気は糢糊《もこ》として画面を塗りつぶしています。
 そこで兵馬は、やはり渦巻く参詣人の中を泳いで、堂の外へ出てみました。それにしてもまだ早い、どこで暇をつぶそうか知らん。本堂を経て三社権現をめぐり、知らず識らず念仏堂の方へ歩みをうつすと、松井源水が黒山のように人を集めて居合《いあい》を抜いている。それにもあまり興が乗らず、去って豆蔵《まめぞう》を覗《のぞ》いたり、奥山の楊弓《ようきゅう》を素通りしたりしているうちに、日が全く暮れて、兵馬は約束の五重塔の下へ来てみると、
「宇津木様、お待ち申しておりました」
 その声を聞くと兵馬は、飛び出つ思いです。
 今日は七兵衛が笠もかぶらず、合羽も着ず、着流しに下駄穿きで、近在の世話人が、公事《くじ》で江戸へ出向いて来たような風采《ふうさい》。
「お約束のお金を、ここへ持って参りました」
といって、懐ろから風呂敷包を取り出す。
「これはありがとう、なんともお礼の申しようがありませぬ」
 実際、兵馬は夢のように喜びました。今まで半信半疑とはいうものの、疑いの方が
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