一つの銀瓶《ぎんがめ》を手に捧げています。
「畏《かしこ》まりました、あの大井戸から汲んで参りましょう」
「済みませんね」
 廊下を渡って来た女の人は、手に持っていた銀瓶を、鼠を押えていた女中に手渡しすると、鼠を押えていた女中は、それを持って水汲みに出かけたもののようです。
「毎度有難うございます」
 忠作はいいかげんのことを言って立去ろうとする時に、銀瓶を捧げて来た女の人が、
「もし、小僧さん」
と呼び留めました。
「はい、御用でございますか」
「あの、お前さんは毎日ここへ来るでしょうね」
「はい、毎日伺います」
「それではね、ちょっと、わたしに頼まれて下さいな」
「へえ、よろしうございますとも、できますことならば何なりと」
 忠作を見かけて、何事をか頼もうとするこの女の人は、お松でありました。
 忠作は、その頼まれごとを勿怪《もっけ》の幸いと立戻ると、お松は何か用向を言おうとして忠作の顔を見て、
「小僧さん、お前のお店はどこ」
「三河屋でございます」
 忠作は抜からず返答をしたつもりでいました。
 お松は暫く思案していたが、やがて何を頼むのかと見れば、
「小僧さん、ついでの時でいい
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