鋭敏であった弁信は、それほど好きな琵琶の音をさえ打忘れて、その立ちのぼる異様な臭気に心を取られました。
「おや」
その時に琵琶の主《ぬし》が代りました。琵琶ばかり弾いて、あえて歌わなかった一曲はそれで終って、新たに代った人が同じところへ坐って、徐《おもむろ》に歌い出したのが「木崎原」の一段であります。席はいよいよ静粛なものになりました。
薩摩の島津家にとっては「木崎原」の歌は大切な歌であります。藩主もこの木崎原を聞く時には端坐して、両手を膝の上へ置いて謹んで聞くのだそうです。それですから弾ずる人は無論のこと、ここに集まるすべての人が、みな相当の敬意を表して、いよいよ席が静粛なものになったのでしょう。
ひとり、道庵先生のみは相も変らず、謹聴しているのか、居眠りをしているのか、わからない形で、尤もらしく下を向いて控えていることは前と同じです。見ようによっては、下を向いて時々|欠伸《あくび》を噛み殺しているようにも見えるところが、この先生の持って生れた人柄です。
木崎原の琵琶歌は、島津家先祖の功業をうとうたもので、その初段の歌い出しはこういう文句であります。
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