酒《みき》を供えるやらの騒ぎとなりました。
 どうしてもこれには、何か黒幕がなければならないことです。
 それから後、かつて貧窮組が起った時と同じ伝染作用が、江戸の市中に起りました。前の時は不得要領な貧民どもが寄り集まって、お粥《かゆ》を食って食い歩いたのだが、今度は無暗に踊って踊り歩くのです。甲の町内で阿夫利山の木太刀を担ぎ出すと、乙の町内では鎮守の獅子頭を振り立てるものがあります。山伏|体《てい》の男を馬に乗せて、法螺《ほら》を吹かせて押出すのもあります。貧窮組が不得要領であった如くに、この踊りの流行も不得要領です。ひとり馬に乗せられた天狗の面は、必ずしも最初の目的通り、伝通院へ送り込まれるものとは限りません。調子に乗ってここを振出しに、江戸八百八街を引き廻されることになるかも知れません。
 金伽羅童子《こんがらどうじ》、制陀伽童子《せいたかどうじ》が笛を吹いて行くと、揃いの単衣《ひとえ》を着た二十余名の若い者が、団扇《うちわ》を以て、馬上の天狗もろともに前後左右から煽《あお》ぎ立てました。
 その煽ぎ立てている揃いの若い者の中を米友が見下ろすと、あっと意外に驚く人物が交っていたから、米友はかぶった天狗の面の中から、その男を見つめました。
 米友が驚いたその揃いの若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人です。

         六

 それとは別に、小塚原のお仕置場の前の休み茶屋に収容されたお喋《しゃべ》り坊主の弁信の枕許《まくらもと》には、道庵もいれば、清澄の茂太郎もいます。道庵のいることは不思議ではないが、茂太郎は、弁信が背負って来た笈《おい》の中から出たものです。
 疲労しきった弁信は、そこで前後も知らぬ熟睡に耽《ふけ》っているが、さて道庵の身になってみると、小金ケ原の踊りは、今やああして江戸の市中へ移って来てみると、これから小金ケ原まで視察に行くほどの必要もなく、またかえってこの江戸の市中のこれからの騒ぎを見のがすわけにゆかないから、そこで弁信、茂太郎の徒をつれて引返すことにきめました。不動院の一行は、ともかく米友は道庵に托しておいて、小金ケ原へ出かけて一応の視察を試むることになりました。
 弁信と茂太郎とを駕籠《かご》に乗せて、長者町の屋敷へ帰って来た道庵、外《はず》しておいた門札をかけ返すと間もなく、病家の迎えを受けたから早速でかけます。
 弁信は一間のうちに死んだもののようになって眠っている。茂太郎はその枕許についていながら、退屈まぎれに庭を見ると、一叢《ひとむら》の竹が密生していました。その竹を見ると茂太郎は、笛が作ってみたくて作ってみたくて堪らなくなりました。笛を作るには作りごろの竹であると思いました。
 欲しくなるとじっとしてはおられないのがこの少年の癖で、とうとう庭へ下りて、丁々《ちょうちょう》とその一本の竹を切って取り、手際よくこしらえ上げたのが一管の、一節切《ひとよぎり》に似たものです。
 それを唇に当てて、ひとり微笑《ほほえ》んで、思うままにそれを吹き鳴らして楽しもうとしたが、それではせっかく寝ている弁信を驚かすことを怖るるもののように、弁信の寝顔をながめました。
 実際よく寝ることであると思わないわけにはゆきません。自分は、あの狭い笈の中へ押込められて、馬の背に揺られ通して来たけれど、さして眠いとも思わず、またさして疲労も感じないのに、弁信さんの眠たいことと、疲れっぷりは随分ひどいと、今更のようにながめました。しかし、自分は、海へもぐっても覚えのあることで人並よりはズンと息が長いのだし、一晩二晩寝なかったところが何ともないように生れているが、世間の人がみんなそうではない。そこで、いささかでも弁信の安眠を妨げないように、自分も心置きなく、暫くでもこの笛を吹き試みて遊びたいという心から、また廊下へ出てみました。廊下へ出てみたところで、やっぱりその響きが、弁信を驚かそうという心配は同じことです。
 笛を携えて庭へ下りて、軒に立てかけた梯子《はしご》を見上げると、屋根の上高く櫓《やぐら》が組んであるのを認めました。
 物干にしては高過ぎる、と思いながら、あそこなら誰憚らず笛を吹いてみるに恰好《かっこう》だと思いました。
 この櫓というのは、道庵先生が鰡八大尽《ぼらはちだいじん》に対抗して、馬鹿囃子《ばかばやし》を興行するために特に組み上げた櫓の名残りであります。
 茂太郎が屋根の上の櫓で、誰憚らず笛を吹こうと上ってみたところが、大尽の御殿の広間に多数の人が集まっているのが、そこから手に取るように見下ろすことができます。
 見れば、それは、やはり踊っているのであります。しかも踊っているのは、いずれも綺羅《きら》びやかな人ばかりであります。
 さて
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