、相当の身分あり財産ある者が、続々として詰めかけるようになった時分のことであります。
例の道庵先生が、このことを洩れ聞くと、小膝を丁と打ちました。
「さあ、また乃公《おれ》の出る幕になった」
そこで近辺に住む子分たちに触れを廻し、馬鹿囃子《ばかばやし》の一隊を狩集め、なお有志の大連を差加えて小金ケ原へ乗込み、都鄙《とひ》の道俗をアッと言わせようとして、明日あたりはその下検分に、小金ケ原まで出張してみようか知らんと思っていたところへ、宇治山田の米友が訪ねて来ました。
「先生」
「やあ、珍物入来《ちんぶつにゅうらい》」
さすがの道庵先生が舌を巻いて、額を逆さに撫で上げました。
「どうも暫く御無沙汰をしました」
「いやはや」
道庵は額を逆さに撫でて米友の面《かお》を見ながら、いやはやと言ったのは、どういう意味だかよくわかりません。
「このごろは先生、おいらは目黒の方に行っていますよ」
「なるほど、お前さん、このごろは目黒の方においでなさるのかね」
「目黒の不動様のお寺に御厄介になってるんだが、先生、近いうち旅立ちをするんで、旅の用意の薬をちっとばかり貰いに来た」
「そうですか、よくおいでなさいましたね」
道庵は忌《いや》に御丁寧な挨拶をして、米友をながめています。
「この中へひとつ詰めておもらい申したいんだ。なあに、近所に医者もあるにはありますがね、素姓《すじょう》の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主《きちぼうず》にことわって、わざわざ先生のところまで貰いに来ました」
と言いながら米友は、懐ろから黒塗りの四重印籠を二組取り出して、道庵の前へ並べました。
「なるほど、近所に医者もあるにはあるが、素姓の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主にことわって、わざわざこの長者町の道庵先生までお運び下し置かれたというわけだね。それはそれは痛み入ったことだ、有難くお請《う》けをして、早速、薬は調えて上げるが、米友、もう少し前へおいで」
今日の道庵の猫撫声《ねこなでごえ》が大へんに気味が悪いのです。米友にとっては、女軽業《おんなかるわざ》のお角というものが苦手であるとは違った呼吸で、この道庵もまた苦手であります。道庵に頭からケシ飛ばされる時も、米友は面食《めんくら》ってしまうが、こうして猫撫声で出られる時も、気味が悪くてたまらない。もう少し前へおいでと言われて、米友が妙にハニカンでいると道庵は、
「薬のことは薬で、たしかに承知致したが、お前に少々物の言い方を教えてやるから、もう少し前へ出ておいで」
なんでもないことですけれども、そういうことが気味が悪いから米友は、あまり道庵の家へ寄りつきません。道庵を恩人だとも思い、医術にかけてはエライところのある先生だと信じてはいながらも、米友が道庵に懐《なつ》かないのは、いつもこうして米友を苦しがらせては喜ぶといったような、人の悪いところがあるからです。
「お前、今、なんと言った、目黒から出て来たが、近所に医者もないではないが、素姓の知れたのがいいから、それでこの道庵まで尋ねて来たと、こう言ったね、お前とおれの仲だからそれでもいいけれども、ほかのお医者様の前へ行って、そんなことを言おうものなら、ハリ倒されるよ」
「そりゃどういうわけだろう」
米友自身では、誰に向ってもハリ倒されるようなことを言った覚えはないのです。ここの先生に向って言い得べきことは、よその先生に向っても言い得ないはずはないと思いました。また、人によって言を二三にするような米友じゃあねえ、と腹の中は不平でしたが、道庵に向っては、口に出して啖呵《たんか》を切るわけにはゆきません。
「どういうわけということはなかろうじゃねえか、よく考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍《たけのこ》の名所だろう、筍はお前、どこへ生えると思う」
「そりゃ先生、筍は竹藪《たけやぶ》の中へ生えるにきまってらあな」
「それ見ろ、つまり目黒は藪の名所だろう、その藪の中から出て来たくせに、近所に医者もあるにはあるがとは、道庵に対して随分失礼な言い分じゃねえか、いやにあてっこする[#「あてっこする」に傍点]じゃねえか、その位なら何も最初から、先生、わたしもこのごろ目黒におりまして、近所に藪もあるにはありますが、同じ藪でも長者町の藪の方が気心が知れて安心だから、それで、わざわざやって参りましたと、ナゼ素直に言わねえのだ、それをいやに、遠廻しに、近所に医者もあるにはあるが、わざわざ来てやったと恩に着せるように言われるのが癪だあな、おたがいにこう言った気性だから、物を言うにも歯に衣《きぬ》を着せねえようにして交際《つきあ》おうじゃねえか」
実にくだらないこじつけ[#「こじつけ」に傍点]です。あんまりな言いがかりです。それを真面《まとも》に受け
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