思いました。
けれども、こうなってみると彼等二人は、盲目な群集を利用せんとする連中のためになくてならぬ偶像です。逃げようとしても逃がすまい。強《し》いて出ようとすれば、ここに留まっているよりも危ない。額を突き合せて二人が相談をしたけれども、何を言うにも弁信は盲目であり、茂太郎は子供である。
「では、与次郎に相談してみましょうか」
「ああ、与次郎に相談してみましょうよ」
二人は与次郎に向ってその苦しい立場を説明して、よい知恵を借りたいということを哀願すると、暫く眼をつぶって思案していた与次郎が……待って下さい、この与次郎というのは、一月寺《いちげつじ》の食堂に留守番をしている七十を越えた老爺《おやじ》のことであります。一月寺の貫主《かんす》は年のうち大抵、江戸の出張所に住んでいる。院代《いんだい》がいるにはいるが、これはほとんど寺のことには無頓着で、短笛《たんてき》を弄《ろう》して遊んでいる。与次郎が寺のことはいちばんよく知っていて、いちばんよく働くから、貫主も一目も二目も置くことがあります。与次郎老人が一月寺の実際上の執事《しつじ》でありました。その与次郎が、弁信と茂太郎に相談をかけられて、暫く眼をつぶって首を捻《ひね》っていたが、やがて、ずかずかと立って戸棚の中から引出して来たのが、竹の網代《あじろ》の笈《おい》であります。
「我、汝が為めに箇《こ》の直綴《じきとつ》を做得了《つくりおわ》れり」
与次郎老人が味《あじ》なことを言い出しました。弁信はその声を聞いたけれども、その物を見ることができません。茂太郎はその物を見ているけれども、その言葉を悟ることができません。そこで老人は破顔一笑して、諄々《くどくど》と直綴の説明をはじめたようです。
どんなことに納得《なっとく》させたものか、その日の夕方には、例によって馬に跨《またが》った弁信が、一月寺の門前に現われました。現われたには現われたが、今日はその現われ方がいつものとは違います。いつも前に立って馬を引張って口笛を吹くべきはずの茂太郎が見えないで、その代りでもあるまいが、馬上の弁信法師は、身なりに応じない大きな笈《おい》を背負って、自ら手綱を取っています。それに今までは裸馬であったが、今日は質素ながらも鞍《くら》を置いて手綱をかませています。ただ、弁信の背中に背負っている笈が、いかにも大きいのに、弁信そのものが小兵《こひょう》の法師ですから、弁信が笈を負うのではなく、笈が弁信を背負って馬に乗っているように見えます。
それと見て集まった人々は、今日の馬上の有様の変ったのに驚き、また前にいるべきはずの茂太郎のいないことを怪しみもしました。それにも拘らず、盲法師の弁信は自ら手綱をかいくって、徐々《しずしず》と馬を進めながら、今日は馬上で得意のお喋りをはじめます。
「皆さん、老少不定《ろうしょうふじょう》と申して、悲しいことでございます、長らく皆様の御贔屓《ごひいき》になっておりました茂太郎が死にました……お驚きなさるのも御尤《ごもっと》もでございます、皆様がお驚きなさるより先に、私が驚きました、無常の風は朝《あした》にも吹き夕《ゆうべ》にも吹くとは申しながら、なんとこれはあんまり情けないことではござりませぬか、昨日までは皆様と一緒に、ああして歌をうたい、踊りを見ておりました茂太郎が、僅か一日病んで、眠るが如くこの世の息を引取りましたと申しますのは、ほんとに私ながら夢のようでございます、これと申しても、みな前世の因縁ずくでございますから、誰を怨《うら》み、何を悲しもうようもございませぬ、それで、私は友達の誼《よし》みに、せめてあの子の後生追善《ごしょうついぜん》を営みたいと思いまして、今夕《こんせき》こうやって出て参りました、私の背中をごらん下さいまし、この大きな笈の中に、この世の息を引取った清澄の茂太郎が、眠るが如くに往生を致しておりますのでございます、私は、これを持って江戸の菩提寺《ぼだいじ》へ安らかに葬ってやりたいと思いまして、そうしてこうやって出かけたのでございます」
五
小金ケ原の珍《ちん》な現象が、江戸の市中までも評判になると、そこに謡言《ようげん》がある。曰《いわ》く、近いうちに江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉《ことごと》く住むところを失うて、一時、小金ケ原へ仮りの都を作らねばならぬ。その時に最も幸福に救われたいものは、今のうち小金ケ原の新しい神様を信心しておくがよろしいと、それはずいぶんばかばかしい謡言であります。多少、心ある者は、一笑に附して顧みざるべきほどの無稽《むけい》の言葉であるにかかわらず、それを信ずるものが少なくなかったということは、今も昔も変ることがありません。踊りに行くものよりは信心に行く者が多くなって
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