、長く黙ってはいませんよ、いつかこの踊りを差しとめに来るにきまっている。けれどもお気の毒ながらこうなっては、それらの人の力で差しとめることはできませんね、音頭を取る茂ちゃん、踊り出さないわたしでさえも手がつけられないのに、留守をしている人たちに、どうしてこの踊り狂う人たちの血気を抑えることができましょう。そうなると、きっとお上《かみ》のお声がかりということになるにきまっている、お役人が出向いて来て力ずくで差しとめるということにきまっているよ。その時にお役人から、この踊りの音頭取りとして、茂ちゃんとわたしが捉まったらどうしよう。別にわたしたちが悪いことをしたというわけではないが、わたしたちが音頭を取りさえしなければ、この踊りは鎮《しず》まるという心持で、二人を捉まえ、牢の中へ連れて行かれたらどうしましょう。茂ちゃん、今のうちに何とか考えてお置き、わたしは、それが心配になるのよ」
弁信は茂太郎と共に相警《あいいまし》める心でこう言いました。
二人が相警めているにかかわらず、一方にはこの盛んなる人気を利用せんとする者が現われました。誰がしたものか踊っている間へ、八幡様や水天宮のお札をおびただしく撒《ま》き散らしたものがあります。人は天からお札が降ったものと思いました。
また一方には、こういって言い触らす者もあります。
「世は末になった、近いうちに世界の立直しがある、踊るなら今のうち」
このふれごとは、短いながら、人の眼前の快楽を嗾《そそ》るにはかなりの力を持っていました。
当時、人の心はどこへ行ってもさまで穏かだというわけにはゆきません。先覚の人は国家の急を見て奔走しているが、なんにも知らぬ市井《しせい》村落の人たちとても、どこぞ心の底に不安が宿っていないということはありません。近いうちに世間に大変動が起るだろうという暗示は、女子供の心にまで映っていないということはありません。
「踊るなら今のうち」――そこで世の終りがなんとなく近づいて、人が前路《ぜんろ》の短い慾望を貪《むさぼ》り取ろうとする形勢が見え出します。
小金ケ原のこの踊りが、ついに江戸にまで伝わるに至り、その盛んなる噂を聞いて、江戸から見物に出かける者があります。見物に行った者は必ずその仲間に加わって踊り出さねば止まないことです。
今は、この踊りの場でうたう歌が、やれ見ろ、それ見ろ、筑波見ろ、というこの地方の民謡だけではありません。相馬流山《そうまながれやま》の節を持ち込むものもあります。潮来出島《いたこでじま》を改作する者もあります。ついに「えいじゃないか」を歌い出すものがあって、その踊りぶりも得手勝手の千差万別なものとなりました。
その翌日は、お札の降ったところの原の真中に、白木造りの仮宮《かりみや》が出来ました。その晩には仮宮の前へ、誰がするともなく、おびただしい鏡餅の供え物です。紙に包んだ金何疋のお初穂《はつほ》が山のように積まれました。
多分、江戸から来た物好きがしたことでしょう。白の襦袢《じゅばん》に白の鉢巻の揃いで繰り込んで来た一隊が、鐘や太鼓で盛んに「えいじゃないか」を踊ります。
「一杯飲んでも、えいじゃないか、えいじゃないか」
神前のお神酒《みき》をかかえ出して、自らも飲み、人にもすすめながら踊りました。
小金ケ原の真中へ町が立ちます。物を売る店が軒を並べました。
毎夜、一旦、ここへ集まって踊りの音頭を揃えた連中が、散々《さんざん》に踊り抜いて、おのおのその土地土地へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、南は千葉佐倉をめざして崩れて行くもの、それに沿道に残されたものが参加して踊って行くから、大河の流れのように末へ行くほど流れが太くなるのはあたりまえです。
その中心地、小金ケ原へ一夜のうちに出来た仮宮の宮柱も、みるみる太くなりました。いつ任命されたものか、もうそこに一癖ありげな神主が、烏帽子直垂《えぼしひたたれ》で納まっております。
なるほど、この神主は一癖も二癖もありげで、ただ宮居の中に納まっているのみでなく、笏《しゃく》を振って手下の者を差図し、奉納の鏡餅は鏡餅、お賽銭はお賽銭で恭《うやうや》しげに処分をさせる。お供え餅は俵へ詰め、お賽銭は叺《かます》へ入れてどこかへ送らせてしまう。
それからまたこの神主は、清澄の茂太郎と、盲法師の弁信の御機嫌を取ることが気味の悪いほどであります。仮宮は何の神様であるか知らないが、その御本体を大切にするよりは、茂太郎と弁信の御機嫌を取ることが大事であるらしい。
憐れむべき二人の少年は、今はこの神主が怖ろしいものになりました。
茂太郎と弁信は、このところを逃げ出そうとします。逃げ出さなければ、もう命が堪らないと
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