て傾きかかった徳川の腹を立たせようとする策略は、なかなか腹黒いものだ。西郷にしたところで、徳川が倒れたら、そのあとを島津に継がせたかろうさ。長州は長州で、またこの次の征夷大将軍は毛利から出さねばならぬと思っているだろう。みんな相当の芝居気《しばいっけ》を持っていない奴はなかろう。しかし、このごろの薩摩屋敷が江戸の町家を荒すのは、芝居の筋書が少し乱暴すぎる」
「ありゃあ、西郷がやっているのではない、益満《ますみつ》がやっているのだ」
「益満というのはなにものだ」
「人によっては、西郷につづく薩摩での人物だと言っている。益満が采配《さいはい》を振《ふる》って、ああして江戸の市中を騒がしているのだから、まだまだ面白い芝居が見られるだろう」
 立聞きをしていた忠作は、この言葉を聞いていたく興味に打たれました。それでは薩摩屋敷の荒《あば》れ者《もの》の采配を振っているのは益満という男か、その益満という男は、どんな男であろうと、忠作は益満という名を、しっかりと頭の中へ刻みつけました。
 そこを出てから忠作は、薩摩屋敷のまわりを一廻りして、芝浜へ向いた用心門のところまで来かかると、ちょうど門内から、忠作よりは二つも三つも年上であろうと思われる少年が出て来ました。少年に似合わず、少しく酒気を帯びているようであります。
 一目見ただけで忠作は、たしかに見覚えのある若ざむらいだと思いました。深く記憶を繰り返してみるまでもなく、目から鼻へ抜けるこの少年の頭には、甲斐の徳間入《とくまいり》の川の中で砂金をすく[#「すく」に傍点]っていた時、あの崖道から下りて来て道をたずねたのが七兵衛で、川を隔てて向うの崖道を七兵衛と共に歩いて行ったのが、今ここへ出て来た若い人であります。
「よろしい、この人のあとをつけてみよう、自分は笠をかぶって、酒屋の御用聞の風《なり》をしているのだから、勝手が悪くはない」
 忠作にあとをつけられているとは知らぬ若い人。ただいま、薩州邸の用心門を立ち出でたのは別人ではない、宇津木兵馬であります。あとをつける者ありとも知らぬ宇津木兵馬は、かなりいい心持になって、
[#ここから2字下げ]
武蔵野に草はしなじな多かれど
 摘む菜にすればさても少なし……
[#ここで字下げ終わり]
と口ずさみながら、芝の山内の方面へ歩いて行きます。
 増上寺の松林へ入り込んだ兵馬は、その中の松の一本の下をグルグルと廻りはじめたが、刀の小柄《こづか》を抜き取りその松の木に、ビシリと突き立てて行ってしまいました。
 兵馬の立去ったあとで、その松の木の傍へ寄って見て、はじめて小柄の突き立てられてあることを知り、忠作はそれを無雑作に引抜いて、松の木には目じるしの疵《きず》をつけ、またも兵馬のあとをつけて行きます。
 兵馬は朴歯《ほおば》の下駄かなにかを穿《は》いている。忠作は草鞋《わらじ》の御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
 さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに見届けました。
 ここまで来てみると、いったい、この家は何者の住居であるかということを突き留めて帰らねばなりません。忠作は屋敷の周囲を二三度まわりました。
「こんにちは、まだ御用はございませんか」
 裏口へ廻って、こんな声色《こわいろ》を使ってみると、
「三河屋の小僧さん?」
「はい」
「ちょいとここへ来て手を貸して下さいな」
「へえ、承知致しました」
 呼び込まれたのを幸いに、潜《くぐ》りから長屋へ入り、
「こんにちは」
「小僧さん、後生ですからここへ来て手を貸して下さい」
 薄暗い中でしきりに女の声。
「どちらでございます」
「かまわないから早く来て下さいよ」
「こちらから上ってもよろしうございますか」
「どこからでもよいから、早く来て手を貸して下さい」
 流し元のあたりで頻《しき》りに呼ぶものだから、忠作は大急ぎで行って見ると、一人の女中が桝《ます》を膝の下に組みしいて、天下分け目のような騒ぎをしているところです。桝落しをこしらえて鼠を伏せるには伏せたが、どうしていいか始末に困っているところらしい。
「鼠が捕れましたね」
「小僧さん、早く、どうかして下さいな」
 忠作は上手に桝を明けて鼠をギュウと捉《つか》まえて、地面へ置くと、足をあげてそれを踏み殺してしまいました。女中はホッと息をついて、
「おや、いつもの小僧さんと違いますね」
と言って忠作の面《かお》を見ました。
「どうか御贔屓《ごひいき》を願います」
 忠作は頭を下げました。
 そこへ、廊下を渡って、また一人の女の人が、
「お福さん」
と呼ばれて、鼠を押えた女中が、
「はい」
と答えました。
「後生ですから、これへ汲みたてのお冷水《ひや》をいっぱい頂戴」
 
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