の言葉がよくわかる子供ですから、動物に好かれて仕方がありません、蛇でも鳥でも、あの子を見ると、みんな友達気取りになって傍へ寄って来るし、当人もまた動物が大好きなんですから、あぶなくて仕方がありません、とうとう繋《つな》いでおいた馬を引張ってどこかへ行ってしまいました」
 お角はこう言っているうちにも焦《じれ》ったそうに、
「この間、千住の方から来た人の話に、下総の小金ケ原に近いところで、たった一人の子供が裸馬に乗ったり、馬から下りて手綱《たづな》を引っぱったりして、遊びながら東の方へ歩いて行ったのを見た者があるといいましたから、それではないかと思います。それで、今日は、これから小金ケ原まで人をやってみようかと思っているところでした」
「なるほど」
「ですけれども、それは月夜の晩のことで、それを見た人も遠目のことですから、茂太郎だか、どうだか、わかったものじゃありません、土地のお百姓の草刈子供やなにかであったりしちゃあ、ばかばかしいと思いますけれど、それでも諦めのためですから」
 お角は、ただ茂太郎に逃げられたということのほかに、負けぬ気の業腹《ごうはら》があるようです。けれども、ここでは別段に、お絹のことも恨んでもいないようです。お絹が連れて行ったはずの茂太郎は、七兵衛の知恵で、伯耆の安綱と交換して、無事に取返したものと見えます。今度、その少年が馬を連れて逃げ出したというのは、それから後の事件で、お絹はまるっきりこの事件にはかかわっていないようです。もし、お絹があのままで、いまだに茂太郎を誘拐して返さないようなことがあれば、それこそお角だって、これだけの焦《じ》れ方でいられようはずはない。お絹もまた、命がけで、そんないたずらを試みるほどに目先が見えないはずはありません。
 あれはあれで解決がついて、別に、清澄の茂太郎は感ずるところあって、月明に乗じ、馴《な》れた馬をひきつれて、この見世物小屋を立去ったものと見えます。

         三

 三田の薩州邸の附近の、越後屋という店に奉公していた忠作が、その家を辞して、専《もっぱ》ら薩州邸内の模様を探りにかかったのは、それから間もない時のことであります。
 いろいろに変装した忠作の身体《からだ》が、薩州邸を中心に三田のあたりに出没していましたが、ある日、越後屋へ立寄って中庭を通りかかると、一室のうちで声高に話をしているさむらいの言葉を聞きました。そのさむらいは何者であるか一向わからないが、酒を飲みつつ威勢のよい話をしているうちに、薩摩ということが折々出るから、そこで何となく聞捨てにならなくなって――
「左様、なんと言っても薩摩で第一の人物は西郷吉之助だろう、西郷につづく者は……西郷につづく者は、ちょっと誰だか見当がつかない」
「西郷はエライには違いない。土佐の坂本竜馬が、西郷の度量|測《はか》るべからず、これを叩くこと大なれば、おのずから大に、これを叩くこと小なれば、おのずから小なり、と言って舌を捲いているところを見ると、かなりの人物であることがわかる。中岡慎太郎の手紙でも、この人学識あり、胆略あり、常に寡言《かげん》にして、最も思慮雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然|人腸《じんちょう》を貫く、且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難を経て頗《すこぶ》る事に老練と、讃《ほ》め立てているところを見ても、かなりの大豪傑であろうと思われるが、しかし、薩摩において西郷ばかりが人物ではあるまい、小松|帯刀《たてわき》や大久保一蔵は、西郷に優るとも劣ることなき豪傑だという評判じゃ」
「そりゃあ西郷以外にも豪傑がなかろうはずはない、まず殿様の斉彬《せいひん》が非凡の人物でなければ西郷を引立てることができようはずがない、知恵と手腕においては小松帯刀や大久保市蔵が西郷に優るとも、徳の一点に至っては、梯子をかけても及ぶまい、人物が大きくって徳がある、英雄|首《こうべ》をめぐらせばすなわち神仙《しんせん》である、西郷は乱世には英雄になれる、頭の振りよう一つでは聖人にも仙人にもなれるところが豪傑中の豪傑だ、おそらく、薩州だけではなく、今の日本をひっくるめて第一等の大人物だろうと考えられる」
「エラク西郷に惚れ込んだものだな。ところで、その徳というものが問題になるのだ、聖人君子の徳というものは、施《ほどこ》して求むるところなきもので、その徳天地に等しという広大無辺なものになるものだが、英雄豪傑の徳というものは、一種の人心収攬術《じんしんしゅうらんじゅつ》に過ぎんのだからな。西郷のその徳というのも要するに、薩摩一国に限られた徳で、大きいと言ったところで、たいてい底もあれば裏もあるものだから、このごろ、江戸の市中へ壮士を入れて、いたずらをさせているのも、一に西郷の方寸に出でるとのことではないか。あの男がこうし
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