の小屋の親方というのが至極|別懇《べっこん》なんでございますから、楽屋で休みながら、お話を伺おうではございませんか」
「なるほど、それもよかろう」
 いったん通り過ぎた女軽業の小屋の前へ、二人は立戻って来て、
「七兵衛、一体こりゃ何だ、この清澄の茂太郎というのは」
「これについては、一通りの魂胆《こんたん》があるんでございます。清澄の茂太郎というのは、房州から仕込んで来たこの小屋の呼び物で、ずいぶん客を呼んでいたものですが、このごろ、その呼び物が逃げ出してしまったんですな。逃げた顛末《てんまつ》は、私がよく存じておりますが、女同士の鞘当《さやあ》てというところがおかしいんで、両方でイガミ合っているうちに、肝腎の当人が、行方知れずになってしまったんでございますよ。当人の茂太郎というのが、二人の女を出し抜いて、近所の馬を引張り出して、どこへ行ってしまったか、いまだに行方がわかりません。何しろ呼び物でございますから、こんなことをして三日の申しわけをしておくんでございます」
 七兵衛は山崎を案内して、路次から楽屋の方へ廻りました。お角は留守でしたけれど、女どもが取持ちをします。
 二人はそこで一杯やりながら、
「さて、七兵衛、これからまた一つ、お前の手を借りたい仕事が出来たのだ、それはほかではない、芝の三田の、俗に四国町というところをお前は知っているか」
「エエ、存じておりますとも、赤羽根橋を渡れば真直ぐに行ったところ、金杉橋を渡ると右へ曲ったところが、それでございましょう。あの辺には薩摩と、阿波と、有馬と、伊予の四カ国のお大名のお邸があるから、それで俗に四国町と申すことまで、ちゃあんと存じておりますよ」
「それだ、その四国町のうちでもいちばん大きな、薩摩の屋敷をお前は知ってるだろうな」
「それもよく存じておりますよ、あのお屋敷の前を俗に御守殿前《ごしゅでんまえ》と申しましてね、門は黒塗りの立派なものでございます、屋根は銅葺の破風作《はふづく》りで、鬼瓦の代りに撞木《しゅもく》のようなものが置いてございます、正面三カ所に轡《くつわ》の紋がありますから、誰が見たって、これが薩州鹿児島で七十七万石の島津のお屋敷だとわかります」
「なるほど」
 そこで山崎譲は懐中から紙入を取り出して、拡げたのは美濃紙大の一枚の絵図面でありました。
「これがその薩摩屋敷だ」
 今更のようにその図面を、しげしげとながめます。
「その薩摩のお屋敷が、どうかなすったのですか」
 七兵衛も傍から覗《のぞ》き込みました。
「お前も知ってるだろう、近頃、江戸の市中を騒がす悪い奴は、大抵ここから出ているのだ」
「なるほど」
「ところで、この薩摩屋敷の中の模様を、すっかり調べ上げてみたいのだが、どうだ、お前によい知恵はないか」
「左様でございますなあ……あのお屋敷が物騒だということは、今に始まったことじゃございませんなあ、大分、眼をつけておいでなさる方がございましたはずですよ。お隣が阿波の屋敷でございましょう、その阿波様の屋敷の火の見櫓の上から、薩州のお屋敷の模様を、こっそりと探っておいでになったお方もありましたっけ」
「おや、どうしてお前は、そんなことまで知っている」
「ちょっとした通りがかりの節に、そんな噂をお聞き申しました。上の山藩の金子とおっしゃるお方なぞは、あれから薩摩の屋敷の中をのぞいて見ては、しきりに絵図を引いておいでになったことがあるそうでございますけれど、本当ですか、嘘ですか」
「ナニ、上の山藩の金子? それでは上の山の金子与三郎のことだろう、あの男ならば、やりそうなことだ」
「それでなんですか、山崎先生、あなたも、あの薩摩のお屋敷の様子を、くわしくお調べになりたいのですか」
「そうだ、それについてお前の知恵を借りたいものだが、何とかしてあの屋敷の中へ入ってみる手段はないものかな」
 こう言われて七兵衛は、篤《とっく》りと考えてみる気になりました。暫く考えていたが、やがて仔細らしく、
「先生が、あの屋敷へ入り込むというのは容易なことじゃござんすまい、私も少々勝手の悪いことがございますのです、ここに一つ思い浮んだのは、ほかじゃございません、甲州の山の中から出て来た勝っ気で勘定高い小倅《こせがれ》が一人、あの近所に住んでいるんでございます、こいつが田作《ごまめ》の歯ぎしりで、ヒドク薩州のおさむらいを恨んでいるんですから、あいつをつっついて、当らしてみたらどうかと思うんでございます……慾こそ深いが、目から鼻へ抜けるような小倅でございますから、つかいようによっては、ずいぶんお役に立ちましょう」
 話半ばのところへ、お角が帰って来ました。
「七兵衛さん、お待たせ申しました」
「どうでした、子供は見つかりましたかね」
「いいえ、見つかりません。何しろ、動物《いきもの》
前へ 次へ
全47ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング