……」
 山崎は煙草を一ぷくしてから、お茶を取って飲みました。
 こうして、また二人が奥歯に物のはさまったような会談ぶりをつづけようとする時分に、廊下を逃げるように立去った宇津木兵馬は、お松の部屋の前に来て立っています。ここへ立寄るつもりで来たのではないが、ここへ来なければならないようになったらしい。
 相生町の老女の家を辞して出でた山崎譲は、両国橋を渡りながら腕を組んで、独合点《ひとりがてん》をして相生町の方を振返りました。
「ははあ、万事読めたわい、南条の奴が、宇津木兵馬をそそのかしてやらせたんだ、道理で小腕ながら、やに[#「やに」に傍点]っこい斬り方ではないと思った。しかし、宇津木があすこにいたということも意外だが、あの先生が南条に頼まれたからとて、余人ならぬ拙者に斬ってかかるというのはわからない、宇津木もおれも、壬生《みぶ》にいては一つ釜の飯を食った仲じゃないか、それに何を間違っておれに刃《やいば》を向けるのだろう、わからんな。ことによってあの先生、南条あたりに説かれて、我々に裏切りをするつもりでやったとすれば憎むべしだ、生意気な奴だ、打捨《うっちゃ》ってはおけないが、我々を敵とするほどに恨みのあるはずはないし、また敵にすれば損のいくことはわかっている、どういうつもりだろう、ひとつ会って詰問してやろうか、返答次第によっては不憫《ふびん》ながらそのままでは置けん。しかし、あいつの腕は惜しい。むしろ、これは裏を掻《か》いて、こっちがあれを逆に利用して、あの一味の動静を探らせてみようか。それがよかろう。まあ、しかし、この辺まで当りがつけば仕事は面白くなる」
 山崎はこう言って、ほほ笑みをしながら、両国橋を歩いて行きました。
 山崎は、江戸を騒がす総ての巨根《おおね》が薩摩に存することをよく知っております。この南条や五十嵐らは薩摩の者ではないが、薩摩とは密接の脈絡を保って、何か関東において事を起そうとしている野心のほども、よく見抜いていました。甲府城乗取りの陰謀は、これがために一頓挫して、南条らは一時、気を抜くために江戸へ退散したことも、山崎は最初から知っていました。
 江戸へ出て来ては、片手間に彼等の行先をつきとめてやろうと、半ばは好奇心でやって来たのが、大木戸の事件以来、こいつは一番、真剣で突っ込まなくてはならないと思いました。
 それでこの数日間、得意の炯眼《けいがん》を光らして見ると、つきとめたのが本所の相生町の老女の家です。南条や五十嵐がこの家に出入りしていること、時としてそこを住居として逗留していることを知るのは、山崎の手腕ではたいした難事ではありませんでした。
 それで、あらまし老女の家の内外の形勢の予備知識を得ておいてから、その内状を発《あば》きにかかるべく、いかなる手段を取ろうかと考えたが、これは拙《へた》なことをするよりは、いきなり南条にぶっつかって、その度胆《どぎも》を抜いてやるのが面白かろうと、結局、こうして今日、押しかけてみたわけです。押しかけてみると南条以外に珍らしい獲物《えもの》がありました。しかしながら、南条も宇津木も、それはまだ末で、例の巨根はそこから蔓《つる》を張っている薩州屋敷にある。将軍不在に乗じて、江戸を騒がすことの根源はそこにある、ということのみきわめが大事であります。
 山崎はそれを考えながら、両国の見世物小屋のある方へと知らず知らず足を引かれて来ました。
 ところが、そのなかのひときわ大きな見世物小屋に「江戸の花 女軽業」の看板が掛っています。その看板の文字を山崎が眺めていると、筆蹟に見覚えがある。見世物小屋などに掲げるには惜しいほどの字だと思いました。
「そうだ、神尾の字に似ているな、甲府詰めになった神尾主膳の筆によく似ているが、いかに落ちぶれたとて、まさか神尾が看板書きにもなるまい。あの男は、今どこに何をしているかなあ」
 山崎はこう思って看板を見ていると、その次に白い布を長く垂れて、全く変った筆で、「清澄の茂太郎事病気の為、向う三日間相休み申候」と認《したた》めてありました。
 山崎がその小屋の前を通り過ぎると、後ろから肩を叩く者があります。
「山崎先生」
「おお、七兵衛か」
 振返って見ると、自分と同じような装《よそお》いをした七兵衛でありました。
「相生町へおいでになりましたか」
「うん、相生町へ乗り込んで見たところだが、お前はどこにいた」
「私は、この女軽業の親方というのを知っております故、ちょっと立寄って参りました。して、相生町の方の御首尾はいかがでございます」
「なかなか面白かった」
「これから、どちらへおいでになります」
「そうさな、お前と会って相談をしてみたいこともあるんだが……」
「それでは、この女軽業の小屋の中へおいでになりませんか、今も申し上げる通り、こ
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