一つの銀瓶《ぎんがめ》を手に捧げています。
「畏《かしこ》まりました、あの大井戸から汲んで参りましょう」
「済みませんね」
廊下を渡って来た女の人は、手に持っていた銀瓶を、鼠を押えていた女中に手渡しすると、鼠を押えていた女中は、それを持って水汲みに出かけたもののようです。
「毎度有難うございます」
忠作はいいかげんのことを言って立去ろうとする時に、銀瓶を捧げて来た女の人が、
「もし、小僧さん」
と呼び留めました。
「はい、御用でございますか」
「あの、お前さんは毎日ここへ来るでしょうね」
「はい、毎日伺います」
「それではね、ちょっと、わたしに頼まれて下さいな」
「へえ、よろしうございますとも、できますことならば何なりと」
忠作を見かけて、何事をか頼もうとするこの女の人は、お松でありました。
忠作は、その頼まれごとを勿怪《もっけ》の幸いと立戻ると、お松は何か用向を言おうとして忠作の顔を見て、
「小僧さん、お前のお店はどこ」
「三河屋でございます」
忠作は抜からず返答をしたつもりでいました。
お松は暫く思案していたが、やがて何を頼むのかと見れば、
「小僧さん、ついでの時でいいから、岩見銀山《いわみぎんざん》の薬を少しばかり買って来て頂戴な」
と言いました。
「はい、承知致しました」
岩見銀山の薬が買いたければ、特に改まって酒屋の御用聞に頼むまでもあるまいに、先刻も女中が鼠を伏せて頻りに騒いでいたが、今もわざわざ岩見銀山を注文するのは、よくよくこの屋敷では鼠で困らされているのだろうと思いました。そこへ以前の女が銀瓶に水を満たして持って来ると、
「どうも御苦労さま」
お松はそれを受取って、もとの廊下を帰って行きます。忠作も、お松から岩見銀山を買うべく頼まれた小銭《こぜに》を持って屋敷の外へ出てしまいました。
兵馬が未《いま》だこの屋敷へ帰らず、忠作がそのまわりをうろつかない以前に、肩臂《かたひじ》いからした多くの豪傑がこの屋敷へ入り込みました。集まるもの十五六名。
例の南条力が牛耳《ぎゅうじ》を取っていて、このごろ暫く姿を見せなかった五十嵐甲子雄も、その側《わき》に控えています。
「さて、諸君」
南条が議長の役を承って、
「ここに一つ、諸君の志願を募りたいことがある、それは勿体《もったい》ないような仕事で、その実さまで勿体ないことではなく、子供だましのような仕事で、実は相当の危険がある、やってみることは雑作がなくて、やり了《おお》せた後に祟《たた》りが来ないとは言えない、金銭に積ってはいくらでもないが、ある方面の神経を焦《じら》すにはくっきょうな利目《ききめ》のある仕事だ」
「そりゃいったい何だ」
「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入《ちんにゅう》してだ、神前の幣束《へいそく》を奪って来るのだ、幣束に限ったことはない、東照権現の前にある有難そうなものを、すべてひっくり返して来るのだ、それを、こっそりやってはいけない、面白そうにやって来るのだ、東照権現が有難いものには有難いが、有難くないものにはこの通りだというところを見せて来ればいいのだ、そのお印《しるし》に幣束を持ち帰って来るのだ。事は児戯に類するが、その及ぼすところに魂胆《こんたん》がある」
南条はこう言いました。何のことかと思えば、徳川幕府の本尊様である東照権現の神前に無礼を加え来《きた》れという注文であります。なるほど、一派の志士には以前から、こういうことをやりたがっている人がありました。頼山陽の息子さんの頼三樹三郎《らいみきさぶろう》なんぞという人も、たしか東照宮の燈籠が憎かったと見えて、それを刀で斬りつけて、ついに捉《つか》まって自分の首を斬られるような羽目になりました。ここでもまた、東照宮の神前の幣束が目の敵《かたき》になってきたようです。なるほど、燈籠や幣束を苛《いじ》めたところで仕方がない、児戯に類する仕事であるが、それをやらせようという者には、相当の魂胆がなければなりません。
果して、それは面白いからやろうという者が続出しました。
全体が悉《ことごと》く志願者ですから、指名をすれば不平が出る、よろしい、主人役を除いてその余の同勢が悉く、明夕《みょうせき》押出そうということにきまって会が終りました。宇津木兵馬が帰って来たのは、その散会の後のことであります。
果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入《ちんにゅう》しました。
内陣の正面、東照公の木像を納めた扉の前に立っている、三本の金の御幣《ごへい》を担ぎ出したものがあります。事のついでに左右の白幣も、拝殿に立てた幣《ぬさ》も引っこ抜いて担ぎ出しました。お石《いし》の間《ま》で散々《さんざん》にお神酒《みき》をいただいて行った形跡もありま
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