人が噂《うわさ》をはじめたのは、もはや百日ほど以前のことです。その後、夜な夜な女の姿をした人がこの参籠堂へ物を運んで、忍びやかに来ては、忍びやかに帰るということも人の噂《うわさ》に上りました。
 人の噂とは言いながら、この山麓であるから、それが拡がったところで大した範囲ではありません。噂は噂だけにとどまって、誰しもその真相をたしかめようとの暇を作るものはありません。その時分こそ廃《すた》ったけれども、その以前は、この滝にかかってかなりの荒行《あらぎょう》をしたものさえあるとのことだから、隠れて行をする信心の行者を妨げるのを恐れ多いとして、やはり噂を噂だけにして、里人はあえて近寄ろうともしません。
 百日の間に、参籠堂に籠《こも》って、夜な夜な霊ある滝に打たれてみた時には、信心のなきものもまた、冷気の骨に徹《とお》るものがありましょう。心頭が冷却して、心眼が微かに開くと共に、肉眼に光を呼び起してくることはありそうなことです。
 巣鴨、庚申塚《こうしんづか》のあたりの一夜の出来事が縁となって、机竜之助は夢のように導かれて甲州街道を辿《たど》りました。夢で見た時に、自分の眼が明らかにあいて、以前、東海道を上って行った時の旅のすがたで、女を守る駕籠に引添うて河原の宿、小名路の花屋まで来たが、現実はそれと反対に女に誘われて、駕籠に揺られて小名路まで来ました。
 そこはこの女の土地で、その好意によって蛇滝の参籠堂に隠れて、ついに今日に到りました。蛇滝の水に霊があるならば、この男の眼を癒《なお》さないという限りもあるまいが、事実、こうして夜歩きをすることは、この高原に来た時とのみ限ったことではありません。全く見えない時ですら、江戸の市中を自在に潜行して人を斬りました。
 その時、小仏峠の一点に火が起りました。
 大見晴らしから小仏峠へ出る細径《こみち》があります。火はその一点、小仏山の頂上に近いところで起りました。野火というほどのものではありません、まさしく焚火でありましょう。そうでなければ松明《たいまつ》であります。焚火としても松明としても、それが時ならぬ火であることが、怪しいといえば怪しい火です。
 尾花の中から、その怪しい火に頭を向けて眼を注いでいるらしい竜之助は、たしかに眼が見えるものです。その手には僧侶の持つ如意《にょい》のような尺余の鉄棒を、後ろにして携えていることも、その時にわかりました。
 野分《のわき》の風が颯《さっ》と吹き渡ると、薄尾花《すすきおばな》が揺れます。薄尾花が揺れて高原が海のように動くと、その波の間を泳いで、白衣の鮮かなのが月に背を向けて、山の頂上に近いところから中腹へ下りて来ることは来るが、果してそれがこの高尾の山へ来るのか、それとも右へ廻って与瀬、上野原の方へ下りて行くのか、そのことはまだわかりません。見ているうちにその火が消えました。消えたのではない、隠れたのでしょう。
 大見晴らしからながめた小仏の全山は、坊主山とは言いながら、それを与瀬へ下りようとする中腹には林があります。多分、火の光はその林へ紛《まぎ》れ込んだものでしょう。
 果してその松林の中を人が通ります。怪しい火と見たのは、その人の手に持っていた提灯《ちょうちん》でありました。その提灯とても、二《ふた》つ引両《ひきりょう》の紋をつけた世間並みの弓張提灯で、後ろには「加」という字が一字記してあるだけです。その提灯を携えて小仏山から下りて、この松林に入って、多分この松林を抜けたらば、また薄尾花《すすきおばな》の野原を、高尾の大見晴らしへ出て山上に詣《もう》でるか、或いは山下の村へ行くものでしょう。
 月夜に提灯は、ふさわしくないけれど、これとてもおそらくは、自分の足許を照すためではなく、悪獣や怪鳥の害を避ける要心のためと見れば、さのみ怪しむべきこともありません。怪しいのは、いかに旅慣れたとは言いながら、深夜、この間道を一人で通るという豪胆と、それから、しかく豪胆であらしめた用向そのものであります。
 ところが、この豪胆なる旅人は女でありました。笠に、てっこう、きゃはんのかいがいしい身なりをしているけれども、女は女です。しかも背に男の子を一人背負うて、ほかに全く連れとてもなく、この山道を急ぐのであります。

 竜之助がもと来た道とは全く別な方面、つまり小仏峠へ出る細径《こみち》のことであります。蛇滝へ帰らないで、この路を行くとすれば、右の怪しい火に心がうつって、それを突き留めてみたくなったのかも知れません。突き留めれば斬ってしまうつもりでしょう。たとえ眼があいても、心の悟りが開けきれない限り、彼のいたずら心は遽《にわ》かに止むべしとは思われません。
 来た時の路とは違って、これから小仏へ出るまでは坊主山です。小仏そのものの全体が坊主山ですから、樺
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