木科《かばのきか》の密林も無ければ、松杉科の喬木もあるのではない。ただ薄尾花が一面の原野をなしているのだから、月に乗じて行く白衣の人の影は、そのまま銀のようにかがやいて、野分《のわき》に吹かれて漂うて行くばかりです。けれども、それとても長い間のことでありません。最初は膝のあたりに戯れていた薄尾花も、ようやく胸に達し、ついには人丈《ひとたけ》よりも高くなって、いつしか人影を没してしまいました。月は相変らず天心を西へ少し傾いたところに冴《さ》えてはいるけれども、高原の上は、今や人の影というものはありません。
 しかしながら、あちらの小仏山の頂上に近いところに見えた一点の火は、消えたということはありません。極めて小さい火ではあるけれども、火のあるところには人間のあることは確かです。人間が無ければ、それは野火の卵ですけれども、その小さな火が、少しずつ山を下りて来ることによって、人間の手に操《あやつ》られているということは疑うべくもありません。
 その女は、徳間峠《とくまとうげ》から縁を引いた山の娘の頭《かしら》のお徳であります。どうしてこの女が、真夜中にここを通るのか。蛇滝の参籠堂にその人がいると知って、わざわざこの難路を訪れるのか。もし、そうであったなら、今宵に始まったことではあるまい。与瀬か上野原あたりに宿を取っていて、夜な夜な参籠堂に物を運ぶというのは、この女の仕事かも知れません。
 大見晴らしに立って認め得た一点の火を、それと知ればこそ、竜之助は迎えのために薄尾花の海へ身を隠したのでしょう。蛇滝へ参籠して既に百日にもなるとすれば、その間に、篠井山《しののいざん》の下の月夜段《つきよだん》の里まで消息を通ずることは、あえて難事ではありません。ともかくも峠一つ越えての甲州国内のことですから、女の身でも真心さえあれば、訪ねて来られない道ではないのです。ましてお徳は旅に慣れた女であります。奈良田の湯まで看病に行った時の熱が冷めないでいるならば、遥々《はるばる》かけた呼出しに応じないというはずはありません。お徳の目的はわかりました。たしかに蛇滝の参籠堂をめがけて小仏の裏道を急いだのであります。背に負うている男の子は先夫――というても今も夫があるのではないが、亡くなった夫の子の蔵太郎であることも疑いはありません。
 しかしながら、竜之助の気は知れない。遠く白根の山ふところから、かりそめの縁《ゆかり》の女を呼び寄せてどうする気だ。彼には近き現在に於てお銀様があるはずだ。また庚申塚の辱《はずか》しめの時から、夢のようにここまで導いて、蛇滝の参籠に骨を折ってくれた小名路《こなじ》の宿の女も、たしかに宿に隠れているはずだ。理想のない人には、人生が色と慾とよりほかにはない。生きていることが真暗であった竜之助に、人を斬るの慾と、女に接するの慾と、その二つよりほかになかったものか知らん。今、幸いに、何かの恩恵によって、朧《おぼろ》げながら再び人の世の光明を取返しかけたという時に、もう女無しではいられないというのはあまりに浅ましい。呼び迎える男も男だが、それに応じて来る女も女だ。愚かなのは人間のみではありません、虫のうちの最も愚かなのを火取虫と申します。気になるのはこの女の携えている提灯の、後になり先になり二羽の蝶が狂うていることです。あまり気になるから、追ってみたけれども離れません。叱ってみたけれども驚かないで、提灯の上へとまり、後ろへ舞い、その志はひたすら中なる火を取らんとして、焦《あせ》るもののようです。
 二つの蝶のうちの一つは白くして小さく、他の一つは黒くして大きなものです。白くして小さきは多分白蝶と呼ぶもので、黒くして大きなるは烏羽揚羽《からすはあげは》でありましょう。この二つだけが提灯のまわりで狂います。
「叱《しっ》、いやな蝶々だこと」
 女は気になるから片手で打つ真似をしました。その手をくぐって白いのは後ろへ、黒いのは前へ隠れて、また二つが一緒になって提灯の上へ現われるのは、人をからかっているような仕打ちであります。
 猛獣毒蛇も怖ろしいけれども、それは火を見ると逃げます。弱々しい蝶に限って火を見ると、かえってそれを慕い寄るのが怖ろしい。避けるものは身を惜しむことを知っているけれども、寄るものは身を殺すことを惜しみません。火に焦《こが》れて来て、身の程を知らぬ望みのために、身を焼かれることを知らないものは、憐れむべくもまた怖ろしいものです。
「叱《しっ》、あちらへ行っておいで」
 この時の蝶は、たしかに戯《たわむ》れているのではなく、噛み合っているのでした。いずれが早く火に触れようかとして、先を争うて噛み合っているのに違いない。
 その時、提灯の火がパッと消えました。二つの蝶がその火を消してしまいました。
 再び火をつける必要はあります
前へ 次へ
全47ページ中45ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング