を見ることができます。
 この時に、素人は、どうかすると相模川を多摩川と見誤ることがあります。ややあって多摩川を発見して、あれは利根か知らんと訝《いぶか》る者もありますけれど、少しく頭を冷やかにして地理を案ずれば、その区別は苦にするほどのことではありません。
 人跡《じんせき》の容易に到らない道志谷《どうしだに》を上って行くと、丹沢から焼山を経て赤石連山になって、その裏に鳥も通わぬ白根《しらね》の峰つづきが見える。富士の現われるのは、その赤石連山と焼山岳の間であります。空気のかげんによっては、道志谷の山のひだが驚くばかりハッキリして、そこを這《は》う蟻の群までが見えるような心持がする。
 やはり東を向いたままで、関東の平野を左の方にながめてゆくと、筑波と日光の山を見ることができます。月の出るてう武蔵野の西の涯《はて》に山があって、そこがすなわち秩父根《ちちぶね》であります。秩父の山と上毛の山とは切っても切れない脈を引いている。妙義も、榛名《はるな》も、秩父を除いては見ることも答えることもできないほど微かに、信濃なる浅間の山に立つ煙がのぼるのを眺めた時に、心ある人は碓氷峠《うすいとうげ》の風車を思い出して泣きます。
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碓氷峠のあの風車
誰を待つやらクルクルと
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 その碓氷峠は想望するのみで、ここから見ることはできないが、小仏峠はすぐ眼前に聳《そび》えているのがそれです。東へ向っていたのをグルリと西へ向き返って見ると、高原の鼻の先にお内裏雛《だいりびな》のお后《きさき》にそっくりの衣紋《えもん》正しい形をしたのが小仏山で、駒木野の関所から通る小仏峠道はその上を通ります。
 小仏の背後に高いのが景信山《かげのぶやま》で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺《みね》であります。転じて景信の背後には金刀羅山《こんぴらやま》、大岳山《おおたけさん》、御岳山《みたけさん》の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷《すべ》って真一文字に甲州路をながめると、またしても山また山で、街道第一の難所、笹子の嶺《みね》を貫いて、その奥に甲信の境なる八ケ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ケ岳です。
 こうして見ると高山があり、峻嶺があり、丘陵があり、平野があり、河川が流れ、海島が漂い、人跡の到らざるところと、人間の最も多く住むところとを、すべてこの高尾の大見晴らしの一眸《いちぼう》のうちに包むことができる。大見晴らしの大きさは、その接触点に立つの大きさであります。

 それはさておいて、今、月明を仰いでこの高原の薄原《すすきばら》の中に、ひとり立つ机竜之助はこの時、もう眼があいていました。いな、少なくとも月の微光をながめ得るほどには、眼が開いていなければならないはずです。
 すすき尾花の中に西を向いている、たったひとりの人影に、ちょうど、天心に到る十六日の月が隈《くま》なく照しています。
 もし、煙霧がなければ白根山の峰つづきが見ゆるあたりに、竜之助はいつまでか立ち尽しているが、風はそよとも吹かず、ただ高原の夜気が水のように流れているだけです。
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鳥も通わぬ白根の山に
月の光りがさすわいな
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 多分、その白根の山ふところに心残りがあるのでしょう。
 白根の山ふところの奈良田の温泉で、似而非《にせ》の役人を一槍の下に縫いつけたのは、さのみ恨みの残るべきことではありません。
 徳間峠で倒れた時に介抱を受けた山の娘の頭《かしら》のお徳のことが、思い出になるとすれば、思い出にはなります。
 お徳は親切な女でした。温和なうちに、かいがいしいところがあって、世話女房としての無類の情味があったことを、今こうして白根の方をながめるにつけて、思い出さないという限りはありません。眼に見えない面影《おもかげ》ながら、それを思い浮べると、肉附のよい、血色の麗《うる》わしい、細い眼に無限の優しみを持った、年増盛りであったことを思いやらないわけにはゆきません。
 お徳の面影が思われると、同じような月夜の晩に、月見草の多い庭で砧《きぬた》を打ちながら、
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甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》
涙じめりで火がつかぬ
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と得意の俚謡《りよう》をうたったことが耳に残ります。眼の見えた以前の人は暫く措《お》き、眼が見えなくなってから後の人の面影が知りたい。少しでも眼が見えるようになったとしたら、今までの絶望がまた新たなる希望として現われない限りはあるまい。
 その時分は荒れ果てて狐狸の棲処《すみか》となっていた蛇滝の参籠堂に、行者が籠りはじめたと麓の
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