守となりました。齢《よわい》はもう七十を越しているから、武芸の話は問う人でもなければ滅多にすることはないが、発句《ほっく》を好んで自らも作り、人を集めては教えておりました。麓にいる時分にはこの老人を中心として、よく運座が催されたものですけれども、頂上へうつってはそのことがありません。発句の代りに一陶《いっとう》の酒を楽しんで、ありし昔の夢に耽《ふけ》りながら、多年の間、山上でひとり夜を明かすことを苦なりとはしていません。
 ある晩――ちょうど、十六日の月が東から登って、満山ことごとくその月光を浴びた夜半のことであります。この奥の院近くに人の足音を聞きましたから、老人は坐ったまま居間の扉を押開いて、傍《かたわ》らにあった瓶子《へいし》を取って逆《さか》しまにし、その水を外へこぼすと、その傍らを風のように通り抜けた人があります。
 瓶子を片手に、長い白髯《はくぜん》を撫でながら堂守の老人は、その後ろをじっとながめました。奥の院から大見晴らしへ通る木の根の高い細道へ、その人は早くも隠れ去って影だに残してはいません。そこにはおもに樺木科《かばのきか》の植物が多いから、あるところは、ほとんど月の光をも漏らさぬ密林です。
 老人は後ろを見送ったままで小首を捻《ひね》りました。今は、たしかに丑三時《うしみつどき》、麓の若い人から頼まれた発句の点をして、今まで夜更かしをしていたが、ようやくそれを終ったから瓶子を洗って、また一陶の酒を汲もうとしている時に、この人影でしたから、老人が沈吟をはじめたのも無理はありません。時は既望《きぼう》の夜で、珍らしいほどに霽《は》れた空の興に浮かれて月を観る人が無かろうはずはないが、月といっても今宵に限ったことはない。未だ曾《かつ》てこの夜更けに、一人でこの頂上までさまよい来る風流人はありませんでした。
 しかしながら、年をとっては無精《ぶしょう》ですから、わざわざそれを追蒐《おいか》けてみようとの好奇心も動かず、やがてハタと戸を締めきってしまいました。このあたりでは鳴かない怪禽《かいきん》が、やや下ったところの飯綱権現の境内の杉の大木の梢では、しきりに鳴きます。奥の院から山脊《さんせき》を走るところの樺木科の多い大見晴らしへの道は、筑波の男体から女体に通う道とよく似ております。月の光も漏らさないほどの密樹を分けて、やはり大見晴らしへ通う人があります。堂守の老人の見たのが僻目《ひがめ》ではなく、或る時は、さやけき月の光を白衣に受けて、それが銀のようにかがやき、或る時は、木の下暗に葉影を宿してそれが鱗のようにうつります。道の程、八丁ばかりのところを、よれつもつれつ走って行く人の形が、時とすると白蛇ののた[#「のた」に傍点]って行くやと疑われます。
 高尾の本山から右へ落つる水が妙音の琵琶の滝となって、左へ落つるのが神変の蛇滝《じゃだき》となるのであります。琵琶の滝には天人が常住琵琶を弾じ、蛇瀑《じゃばく》の上には倶利迦羅《くりから》の剣を抱いた青銅の蛇《じゃ》が外道降伏《げどうごうぶく》の相を表わしている。その青銅の蛇が時あってか、竜と化して天上に遊ぶことがあるそうです。禹門三級《うもんさんきゅう》の水は高くして、魚が竜と化するということだから、蛇滝の蛇が竜となって天上に遊ぶのは当り前です。けれどもこれは左様なものではありません。人界の竜か、みみずか、行者の着る白衣を着ている机竜之助が、密林の細径を出でて薄原《すすきばら》の大見晴らしの真中に立っています。

 高尾の山の大見晴らしは、誇張することなくして関東一の大見晴らしということができるでしょう。この大見晴らしを絶頂とする高尾の山は、名の示す通りに山というよりは山の尾であります。二千尺を越ゆることのない地点ではありながら、その見晴らしの雄大広闊な趣が無類です。
 その地点だけは、樹木といっては更にない一面の薄原で――薄原といっても薄だけが生えているというわけではなく、薄も、尾花も、苅萱《かるかや》も、萩も、桔梗も、藤袴も、女郎花《おみなえし》もあって、その下にはさまざまの虫が鳴いています。
 ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向ってやや右へ寄ると、武蔵野の平野から相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいているのを、晴れた時は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀《とっこつ》として高きが大山《おおやま》の阿夫利山《あふりさん》です。更に相模野を遠く雲煙|縹渺《ひょうびょう》の間《かん》にながめる時には、海上|微《かす》かに江の島が黒く浮んでいるの
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