井左衛門尉の御寵愛を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ。それは佐内町《さないちょう》の伊豆甚という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち殿に思われて、お手がついてお部屋様に出世をして当時は、ある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ。その名はお柳《りゅう》という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」
南条は平気な面《かお》で、これだけのことを言いました。いったい、この南条という男は、ある時は慨世の国士のようにも見え、ある時は、てんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のように言ってのけもする。
ここにはまた勧めるのにことを欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者に向って、こんなことをも勧めたのは、油紙へ火をつけてやるようなものです。ただでさえも、そういうことをやりたくって、やりたくって、むずむずしている男に向って、こう言って筋を引いては堪ったものではありません。つまり、いま江戸市中の取締りに当っている出羽の庄内の藩主、酒井左衛門尉の愛妾を盗み出せとけしかけたものです。
「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んでそうおっしゃって下さるのが有難え」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、額を打って恐悦しました。
十
多分、厚木へ一晩泊り、荻野山中《おぎのやまなか》へ南条を送りつけて一晩泊ったのであろうと思われるがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、前と同じ道を逆に八王子方面へ向けて帰り道です。
南条は多分荻野山中に逗留《とうりゅう》していることだろうが、あの先生、あんな山の中の城下に逗留して何事を為さんとするのか、へたなことをして、また甲府の二の舞を踏んで牢屋へ叩き込まれるようなことをしなければよいが。
南条を残して、独《ひと》り帰るがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、ほくそ笑みして、何とやら包みきれぬ嬉しさが面《かお》にいっぱいです。これもまた相当の謀叛気があって、当りがついたことから嬉しさが包みきれないものと思われる。
「もし、あなた様はがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様ではございませんか」
これには、さすがのがんりき[#「がんりき」に傍点]が少し吃驚《びっくり》させられました。と言うのは、以前、来る時に自分が立って待伏せしていた路傍《みちばた》の松の木の下に立って、同じような形をして自分を待受けていたのが、思出し笑いをしながら歩いているがんりき[#「がんりき」に傍点]の横合いから不意に浴びせかけたものですから、そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]が吃驚《びっくり》して踏みとどまると、
「エ、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、斯様《かよう》、土足《どそく》裾取《すそと》りまして、御挨拶失礼さんでござんすが、御免なさんせ、向いまして上《うえ》さんと、今度はじめてのお目通りでござんす、自分は相州足柄|上秦野《かみはたの》の仁造《にぞう》の一家、唐駒《からこま》の若い者市助と発し……」
ともかく相当の心得ある博徒と見えて、切口上で賭博打《ばくちうち》の言葉手形を本文通り振出したから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵もいよいよ面食《めんくら》いました。百蔵とても、こうして無宿渡世のならず[#「ならず」に傍点]者だから、その道の挨拶ぐらいを心得ていないはずはないが、この畑道の真中で、だしぬけにこんな挨拶を受けようとは思いもよらないことです。
「まあ、待っておくんなさい」
ことがあんまり突然だから、がんりき[#「がんりき」に傍点]も改まって同様の挨拶で返答をすることができません。
「御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]ない者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います。承りますれば親分様には……」
こちらは面食っているのに、先方はいよいよ澄まし返って、賭博打の言葉手形を正式に振出して来るのだから堪らない。第一、自分が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なるものだということを、この遊び人がどこから聞いて来たろう。様子ありげにここに待伏せて、わざわざ名乗りかけようとするのが、気味が悪いと言えば甚だ悪い。ところがその遊び人は遠慮なく喋り立て、
「親分様には、これより江戸表へおいでなさんして、お仕事をなさるそうに承りましたが、手前、しが[#「しが」に傍点]なき者でござんすが、お手下にお使い下さいますれば有難い仕合せにござんす。手前、生国《しょうごく》と申しまするは、出羽は庄内、酒井左衛門尉の城下十四万石、伊豆屋甚兵衛の娘お柳と発しまして……」
「ばかにしてやがる」
がん
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