奥も表もありはせん」
「御冗談でしょう、奥方はおいでにならずとも、奥向の女中たちの綺麗《きれい》なところが、うようよといるはずでございます」
「そりゃあ、いかなる屋敷でも、女手をなくするというわけにはゆくまい」
「先生、ところで一つお聞き申したいのは、あの別嬪《べっぴん》は、ありゃあ今じゃあどなたの持物になっているんでございます」
「あの別嬪とは誰のことだ」
「お恍《とぼ》けなすっちゃいけませんね、多分あなた方が甲州から連れておいでになったんだろうと思いますが、ただ、ああして預かりっぱなしにしてお置きなさるのか、それともほかにもう定まる主がおありなさるのか、その辺が気になってたまらないから、いつか、あなたにお聞き申してみたいみたいと思っていたところです」
「ふん、早い奴だな、もう、あれを知ってるのか」
「先生、余人ならぬがんりき[#「がんりき」に傍点]の百をみくびりっこなし、人の物でもわが物でも、一旦もの[#「もの」に傍点]にしようと思ったら、逃《のが》したことのねえがんりき[#「がんりき」に傍点]の百でございます」
「それで貴様、あの女をもの[#「もの」に傍点]にしてみるつもりでもあるのか」
「ははは、先生、あればっかりはいけませんよ」
「ふーん」
「先生、いやな嘲笑《あざわら》いをなすっちゃいけません。なるほど、たったいま申し上げた通り、もの[#「もの」に傍点]にしようと思えば、どんな物でもきっともの[#「もの」に傍点]にして見せるがんりき[#「がんりき」に傍点]ではございますけれど、あれだけがもの[#「もの」に傍点]にならないというのは、失礼ながら、あのお屋敷にああしてたくさんの豪傑が詰めておいでになるから、それにがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者がすくんで手を引いているなと、こう思召しになっては違いますよ、どなたが幾人おいでになろうとも、それを怖がって、もの[#「もの」に傍点]になるものをみすみすそのままで置いては、がんりき[#「がんりき」に傍点]の沽券《こけん》にかかわります。正直のところ、覘《ねら》いをつけてみたことも無いではございませんが、怖いですよ、このがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの男が慄《ふる》え上ってしまいました」
「意気地のない奴だな」
「全く意気地がございません」
「何がそれほど怖いのだ」
「は、は、は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の目には、あなた方は怖くはございません、江戸の町奉行や市中の金持は、あなた方を怖がって慄え上るかも知れませんが、私共はそれほど怖いとは思いませんよ。ただ、怖いのはあの犬です、あの黒犬だけには、がんりき[#「がんりき」に傍点]も怖毛《おぞけ》をふるいますよ、あの犬がついている以上は、もの[#「もの」に傍点]になるべきものももの[#「もの」に傍点]になりません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]がここで怖ろしがる犬というのは、ムク犬のことです。ムク犬に護られているから、お君というものに、いかなる意味においても一指を加えることのできないのを、南条の前でこぼしているのは、この男相当の愚痴であります。
 南条は充分の揶揄気分《からかいきぶん》を以て、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]」
「はい」
「貴様、それほどに男自慢なら、左様に怖い思いをせず、もっと面白い獲物《えもの》があるのだが、相談に乗ってみる気はないか」
「ずいぶんやりやしょう」
「器量はなんとも言えないが、格式はあれよりズット上だ」
「なるほど」
「あれは貴様も知っている通り、駒井甚三郎の寵物《かこいもの》だ、駒井は甲州勤番支配で三千石の芙蓉間詰《ふようのまづ》めの直参《じきさん》だが、ここへ持ち出したのは大諸侯だ」
「お大名なんですね……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が咽喉《のど》から手の出るような返事をする。
「そうだ、それを一番、貴様がもの[#「もの」に傍点]にしてみる気なら、尻押しをしてやるまいものでもない」
「御冗談をおっしゃっちゃいけません、あなた方に尻押しをしていただかないからって一人でやりますよ、昔の鼠小僧なんぞは一人でお大名の奥向を、どの位荒したか知れたもんじゃありません、そういう仕事は一人に限りますよ」
「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう、ほかでもないが相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ。今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとってその酒井が苦手であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を断ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかって貰う必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒
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