れがために臨時|停車場《ステーション》が出来たことを思えば、お穴様よりはいっそう由緒《ゆいしょ》があり、来歴がある茂林寺のお狸様のために人間が狂奔するのは、決して笑うべきことではありません。
ところが、そのお狸様は噂ばかりで、まだ御通行の模様が見えないのに、その前後に、各街道からゾロゾロと町の立ったように多数の乞食が、江戸の市中をめがけて繰込んで行くのが目につきます。鼻の欠けたのや、目のクシャクシャや、跛足《びっこ》や、膝行《いざり》や、膏薬貼《こうやくはり》が、おのおの盛装を凝《こ》らして持つべきものを持ち、哀れっぽい声を振絞って、江戸へ向って繰込むことの体《てい》が世の常ではありません。
「今度、お情け深い江戸の公方様《くぼうさま》が、哀れな俺たちにお救い米を下さる、だからこうしてそのお救い米をいただきに上るんだ」
かくて毎日、江戸の市中へ繰込む乞食の数が少ないものではありません。
沿道の商人たちがこぼすまいことか、水戸の中納言様、奥州仙台の陸奥守様、さてこのたび評判の館林《たてばやし》のお狸様、それとは変って、箸も持たぬお菰様《こもさま》のお通りでは、どうも商売がうるおいっこはありません。
こんな碌《ろく》でもないお通りは、追払ってしまいたいものだと思いました。
この際、南条力の東漂西泊ぶりもまた、かなり忙がしいものと言わなければなりません。
甲州街道筋を出かけるから、やはりこれはお馴染《なじみ》の甲州入りをするものだろうと見ていると、八王子から急に南へ折れました。
ここを南へ行けば、甲州へは行かないで相模《さがみ》へ出るのです。このとき南条の身なりは、ちょっとした無宿の長脇差といったふうをしていることも、いつもとは趣が少し違います。そうして八王子を南へ相原道《あいはらみち》を出かけると、路傍の松の木の蔭から、
「先生」
ぬっと現われたのは、たしかに待伏せをしていたものらしい。これも一癖ありそうな旅の無宿者の風体《ふうてい》です。
「やあ」
「ずいぶんお待ち申しました」
「相変らず早い奴だなあ」
こう言ってうちとけた話ぶりで、穏かならぬ雲行きは、すっかり取去られたものです。
「時に先生、御案内でもございましょうが、あれが相模の大山の阿夫利山《あふりさん》でございますよ、こっちのが丹沢で、相模川があそこを流れているんでございます、甲州では例のそれ猿橋のありまする桂川で、それがここいらへ来ては相模川になります、これからずっと下《しも》へさがると馬入川《ばにゅうがわ》で、東海道は平塚のこっちの方へ流れ出すのがそれでございますな、秋になると鱗《うろこ》の細かい鮎が漁《と》れて、ギョデンで食うと、ちょっと乙でございますよ」
待伏せていたのが案内ぶりに、こんなことを言いながら先に立って歩き出したのを見ると、なんの珍しくもない、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でありました。
「そうか。そうして荻野山中《おぎのやまなか》はどの辺に当るんだ」
「山中はここですよ、向うの林に柿の木が見えましょう、あれと尖《とんが》った山の間あたりになりますな、あの山は鳶尾山《とびおざん》というんで、あれに抱かれてこうなったところに荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下があろうというもんです、たとえ一万石でも、あんな山の中に御城下があろうというのは、ちょっと素人《しろうと》が驚きます」
「なるほど」
「なーに、ほんの一足です、真直ぐに引張れば五里といったところでしょうけれども、いったん厚木へ出て戻るのが順ですから、延べにして八里と見積れば、たっぷりです」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の案内ぶりによって見れば、南条は、右の荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下なるものへ志して行こうとするものらしい。無論がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、案内を兼ねてそこまで同道するものと思われる。
こうして二人は相模野《さがみの》を歩き出しているうちに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、
「さて南条様、つかんこと[#「つかんこと」に傍点]を承るようでございますが……」
事改まって、仔細らしい物の尋ねぶりであります。
「何だ」
「ほかではございませんが、あの相生町のお屋敷というものも、ずいぶん変てこなお屋敷でございますな」
「うむ」
「先頃まで、御老女様という大へんにけんしきの高いお年寄が采配《さいはい》を振っておいでになりましたが、近頃では、すっかり浪人者で固めておしまいになりましたね」
「うむ」
「ところが南条様、相手かわれど主《ぬし》かわらずというんでもございましょう、かわらないのは、やっぱりかわりませんな」
「何を言っているのだ」
「御老女様だけが抜けて奥向の方は、すっかりかわらないじゃございませんか」
「あの屋敷には、
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